商店街にまつわるセレナーデ

商店街の並びに僕の家はある。アーケード付き。
この商店街でまことしやかに噂されている事がある、それは道行く女性に美人が多い、という事。
言ってるのは、地元の友達が主だったんだけど、この前偶然別の所に住んでる友達が通りがかって、その友達は何度かこの商店街を通ってるそうで、不思議そうに、まるで何か奇怪な事件の詳細を尋ねるような感じで、僕に尋ねる、
「……前から気になってたんだけど」
そう言って彼は小声になる。
「この商店街の女の子レベル高いよな」
「あー、それは地元でもよく言われてる」
そう答えながら僕は、同じような事を言っていた地元の友達を数人思い浮かべる。と言っても友達少ないので二人ぐらいしか思い浮かべる事ができないが、僕の基準では二人で十分だ。
「なんで可愛い子こんな多いの?」
「いや、知らんけど、なんでやろう」
僕はいろんな可能性を考える。一番考えられるのは、対比でそう見えるだけなんじゃないかと思う。
もっと街の中心部に行けば、老人や中年の割合は少なくなっていくが、ここ地元の商店街では80%以上が老人である、15%が中年で、あとの5%が若者だ。だから若者というだけで綺麗に見えてしまう。
あとは、地元に居るという意識が、ある種のスキを女性の心理に与えて、それが雰囲気として何か良さげな風に見せているのかもしれない。もちろんこれは、見る側の男性に当てはめても、都会の女性よりも地元にいる女性の方が何か違って見えるというのはある。どう違うかは人それぞれだが、違って見えるというのはあるだろう(ここで「あると思います」と書こうかどうしようか迷った、という事を注釈として入れておく)
そんなこんな全てを鑑みても、それでもやっぱりどう考えても、「うっわこの子可愛いなあ、なんでこんな寂れた商店街におんねん」と思う女の子とかを見る事がたまにある。ちょうど昨日見た。
そういう女の子を見る度、僕はナンパというものについて考えざるを得なくなり、どう考えても無理であるという結論に達っして落ち込む。最近ではもうその過程も省略されてきて、可愛い女の子を見ると条件反射で落ち込んでしまう、というシステムが出来上がってしまっている。そういう喪男は多いと思われる。
結果的に、前述の友達が言った、「お前の地元可愛い子多いな」という発言も、僕に複雑な心境をもたらす事になった。
何か自分はとても恵まれている環境にいてるのに、その享受を無駄にしているような、あるいは自分だけ排除されているような、そんな気になってしまう。
これこそが非モテ喪男が抱える現代都市の闇である。なまじ恵まれている環境にいるせいで、こんな思いに駆られる訳で、これがむっさい男ばっかのタコ部屋で働いていたならどうだろう、ジャングルの奥地で野生動物の生態を観察してたなら、あるいは刑務所の単純労働なら、そんな心乱される思いはしなくても生きていけるのだ。
「じゃあお前、今すぐタコ部屋行けば良いじゃねえか、そしたら平穏に暮らせるんだろう?」と君たちは僕に言うかもしれないが、誰が喜んでタコ部屋に行きたいか、そら可愛い子が多い商店街の方がいいに決まってる、つーか仕事中ずっと商店街を通る女の子ばっかり見てる、ずっと外ばっか見てる。そう、――学生のころからずっと、僕は窓の外ばかり見ている。
それこそが、非モテ喪男のジレンマである。
最後の叙情的かつアホみたいなくだり(外ばっか見てる)も含めて、今回の文章全体を指して非モテ喪男のジレンマと言ってみようと思う。


非モテ喪男である僕なりに、「見る」とは何かっていう事を考える。そうやって何が「可愛い」のかという答えを見出せたら良いかなと。そうすれば僕らの複雑なこのジレンマも救われるのではないかと。
多分、「この作品面白い」っていうのと、「この子可愛い」っていう事に、違いは無いんじゃないかと思う。その対応に気付いたときに、「可愛い」という言葉や定義の檻から自由になれる気がする。おおげさに言えば、人生の意味が変わるだろう、人間と作品が同一であるとするのだから。
で、どうやらそのようにして見る事が、「見る」という事なんだろうなと、いやそうでありたいなと。

あるある……、ね、……ある、あるある。

今日、前回のエントリ読み返してて思ったんだが。色々間違ってるうえに適当すぎるったらない。まず源氏物語序盤しか見てないのに、主人公の源氏を語るというとこから間違ってるんだけど、その後の恋愛論が今見ると童貞丸出しに見えてエントリ消したろかなと思った。
同じような事はこれまで何度も思ったりする。
最もひどかったのは、この↓日のエントリ、

全く関係無いが、味噌汁と納豆がうまい。納豆は生たまごと一緒に食べた方が良いってあるある大辞典2で言ってた。
http://d.hatena.ne.jp/slappy/20060818#p3

これを書いた日からしばらくして、あるある大辞典のその納豆の回が捏造だった事が発覚するという事があった。別に普段からあの番組見てた訳でも無いし、あんまりTVの話なんか書かないし、よりにもよってたまたま見た回が捏造って、ネタが無くてさらっと書いたら酷い目にあった、まるでTVとか消費社会とかに超踊らされてる感じの馬鹿な奴丸出し、まさにそんな感じ。


いまさら消すのもなんか恥ずかしいというか、さらにまた踊らされてるような気がして、くやしいので残しているけども。
ほんとブログなんか書いててもろくな事がないw
いまだになんの目的も無く、くだらない文章しか書けないというのが情け無い。
それでも書いていくのだろうけど。
これからも恥ずかしい記録を残していくのだろうけど。

アニメ「源氏物語千年紀 Genji」誠意って何かね?

アニメ「源氏物語千年紀 Genji」三話までの感想。
この前のアニメ会のラジオでオススメしてたので見たんだけど、思ってた以上、3倍ぐらい、面白かった。
アニメ会も言ってたけど、まず出崎演出の妙が凄すぎる、というのが一つ。出崎統ってすげえ人なのだなと、正直度肝抜かれた。心をくすぐってくるような演出は世に数多くあれども、これほどまでにガッシリッ!と心を掴まれる演出は無いだろう、神懸っている。


源氏物語という原作の凄さがもう一つ。
原作読んでないんだけど。
アニメを見てる分だと、女性作者で女性に人気があるっていうイメージを持ってたんだけど、そのイメージとはだいぶ違う。もしかするとケイタイ小説の「恋空」みたいなノリかとも思ってたんだけど、当然ながら全然違った。
あと、ホストとか、アイドルとか、そういう主人公なんだろうと思ってたけど、それも違う。
見てると、恋愛がどうこうよりも、ジェンダーをすごい意識してしまうんだよね。二話で六条の御息所に弟子入りとか、仮にも天皇の息子(しかもイケメン)が女性に頭を下げて教えてもらうとか、そら熱い湯をかぶりたくもなるって話だよ。


非モテ男子は意外とフェミニスト』という言説を最近ブログで見たんだが、たしかに、とも思うし、いや全然フェミニストじゃない、とも思う。
僕自身は自分の事を非モテだと思うんだけど、僕が源氏の君だったら、まあ六条の御息所には行かないよね。弟子入りしてまでセックスしたくないと、非モテならそう思うはず。それは体目当てで相手を騙す事で最低だからやらない、という理屈なのか、女性に教えを乞うなんてプライドが許せないからやらない、なのかどっちだろう。


こういうアヤフヤなどっちつかずで曖昧で、はっきりしない、うじうじした感じこそ、それこそが非モテ非モテたる所以では無いだろうか。
女性が男性を見るときに、彼がフェミニストかそうでないか、なんて見て無いと思う。レディーファーストができるかどうか、というのも多分違うと思う。
まあ非モテの僕が言うのも何だが、誠意みたいなものを見てるんじゃないかと、一語では表しきれないけど、しいて言うならば誠意みたいなものかなと。
少なくとも源氏の君にはそれを感じる。
あとモテてる奴にもそれを感じる。いや、超いいかげんで女なんて便所だぜつってボッコボコ女殴るような最低な男も居るだろうけど、そういうとこはあんまり関係なくて、最低なりに誠意を女性に示そうとするんだと思う、本当に真剣に謝ったりね。誠意の見せ方が上手いというのもあるだろう。
で、女性はその一点だけを見てるのかなと。


そう考えると、非モテの誠意の無さが浮き彫りになって見えてくるというもの。オタクが嫌われるのも、性の対象が二次元なのか三次元なのかはっきりしろと、あなたの事が好きです言っときながらなんの悪びれも無く隠そうともせず二次元萌えとか、誠意が無いと。
何故、あなたの為ならこんなオタク趣味いつでも捨てます(本当にやめるかどうかは別にして)、と言えないのか、もっと誠意見せんかいと、ほんと誠意が無い。


そこで非モテなりの恋愛における誠意の見せ方を思いついた。
その名も、「弟子入り恋愛」
もちろんモデルは六条の御息所と源氏の君である。
ジェンダーを意識するから非モテは彼女の手をとる事ができない、「男」を強制されるようで嫌だからなのか、女性にかしずくのが嫌だからなのかは分からないけど、とにかく苦手。
しかしどうだろう、彼女を師匠だと思えば出来るのではないだろうか。
愛の告白はイコール弟子入りである。土下座したって良いだろう。彼女の帰りを待ち伏せしても良いだろう、誠意ある告白ができればOkしてもらえるかもしれない。何度も弟子入りしようとする奴はストーカーであり、断られたら諦めるのが誠意である、その彼女は弟子をとらない主義か門派が違うのだ。
非モテはそのように考えるべきである。

江東マンション殺人事件と無償の愛について

http://sankei.jp.msn.com/etc/090113/etc0901131231000-n1.htm
全部読んだ。
秋葉原の通り魔もそうだが、この事件の犯人も結局「無償の愛」みたいなものを求めてたようだ。かたや無償の愛が得られない事に絶望して、こなた無償の愛を得る為に、人間を止めた訳だ。人間らしい「愛」を求めていたくせに人間らしからぬ行動に出るとは、まったく皮肉な話である。


一つ疑問なのが、いわゆるモテない男である喪男達(僕も含めて)、彼らは皆一様に理想の愛の形を持っている、その大半が「無償の愛」、つまり絶対に裏切られない、自分を決して嫌いにならないような無垢で打算の無い好意である。その好意をお互いに同じぐらい持つことこそが彼らにとっての理想の「愛」である。では、喪男でない普通の人に「理想の愛とは?」という質問をしたらどうか、やはり同じような答えが返ってくるのではないかと思われる。「無償の愛」という概念はモテるモテないに関わらず一般的に見ても、正しい理想の愛と言えるんじゃないだろうか。
しかし、この理想像は一体どこから来たのだろう? 喪男達(僕を含めて)はモテないので愛を知らないはずである、なのに理想の愛がどういったものか知っているとはこれいかに。


単純に母親(あるいは幼少期の保護者)からの影響を受けているのだろう。親が子に与える愛こそ「無償の愛」だと言える。
それがいつのまにか異性に対しての性愛とリンクして、すり替えられてしまっている。
なぜそこがごっちゃになってしまうのか……。
あれだ、クリスマスという行事にも同じ事が言える。本来家族で過ごす日であるはずのクリスマスが、現代の日本では恋人と二人だけで過ごす日になっている、というすり替え。愛の意味が違う。もはや日本語の「愛」という言葉は、大衆が共有する妄想にすぎない。一体どうしてそうなってしまったのか、誰の何の影響で、何のためにそうなったのか、それを考えるべきなのかもしれない。
多分「愛」という言葉に宗教的重みが無いから、「愛」と「欲望」が同じ意味でも誰も気にしないのだろう。


ところで僕は童貞なので、愛について何も知らない。でも、愛について何一つ知らなくたって、誰かと「仲良くしたい」という気持ちは知っているし、そういう気持ちを常に持っていたいと願う。同時に、他の人達皆がもっと仲良くなれば良いのにと思っている。恋人とだけ仲が良いとか、家族とだけ仲が良いとかじゃなく、皆が皆と仲良く過ごせば良いのにと思っている。僕はその輪のはじっこにでも居れば良いかと、そういう風に思っている。

モチベーションのやってくる場所は

やや、携帯小説とか、携帯コンテンツってマジで皆見てる、それほど沢山の人が見てるとは思ってなかった所があったんだが、やや、マジで見てるのね。


アルファブロガーで無いにしろ、僕にとっても「面白さとは何か」という疑問は常に自問してる事の一つだったりするのだけど。楽しい事と面白い事は同じではない、楽しい事って結局「楽な事」だったりするけど、面白い事はしんどいから。
だとしたら、モチベーションは楽しさ創造からでは無く、面白さ創造から始まるのではないだろうか想像力はベッドルームと路上から。


携帯コンテンツは見るのが楽だから見ているにすぎないのかもしれない。では僕の好きなアニメはどうか、確かにアニメも楽に見れるから好きなのかもしれない。人間は何も考えずただ楽に、楽しさだけを求めて生きていくのが一番幸せなのかもしれない。
しかしどうせなら、せっかく生まれてきたのなら、面白い事したい、面白いものを見たい、そのためならしんどい事をしても良いかと思える。どうやら「楽」の中には面白い事は無いみたいだ。
奥の細道のような険しい道、あるいは自意識の暗い洞穴、あるいは無心で繰り返す機械のような単純作業に、それらの先にこそ本当の面白さがあるような気がしてならない。
という風に考える事でモチベーションを得ようという作戦。モチベーションは面白さから湧き出てくる。

一体ソレはどこからやって来るのだろうか

たしかに、興味の先にあるものは、バイタリティとかモチベーションとかやる気とか、その謎の解明と神秘に触れる事なのかもしれない。


誰だって凄い人間になりたい、凄い事を成したい、と願うはずである。やれば良いのである、ただただその目標に向かってやれば良いだけの話だ、しかしそれが出来ない、悔しいぐらいにできない、一体これは何なのだ。


人によって簡単に出来る事もあればなかなか出来ない事もある、というのも謎である。朝定時に起きる事が出来る人はたくさん居るが、絵をまるで写真のようにリアルに描く人は少ない。たしかに絵描きは修練を積んでそのような技を身に付けたのだろうが、朝定時に起きるのだってそれなりに訓練が必要だと言える。高校卒業までの学生生活12年もかけて訓練しているのだから、逆に12年かけても出来ない人が居るという、それほどに高度な技なのかもしれない。
驚くべきは、簡単とされている事が出来ない人ほど、逆に誰も出来ない難しい事が出来てしまう、なんて現象が起こったりもする、まるでお互いの能力を補いあうかのようではないか、一体何の偶然だろうか。


これは向き不向きとかいう言葉だけでは片付けられない、才能でも無い、そういうのは全て言い訳であり諦めの口実であり、全然論理的でない。
12年かけても出来ないなら、そもそも方法が間違っていたのではないかとまず考えるべきだし、それまでの12年のデータの蓄積を分析するなど、やれる事はいっぱいある。それに12年かけてダメでも、もしかしたら13年目にそれが出来るようになるかもしれないじゃないか、しれないじゃないか! 誰が分かるんだよ! 誰も分からねえだろうが! だったら! である。


いつだって意気込みと威勢だけが良い。実働だけが伴っていない、人間とはそういうものである。そしてそれこそがこのテーマにおいて最大の謎である。
だれしもが簡単に諦めている訳でもネガティブ指向なのでもなく、みな自分の理想に反して動けていないという事実に、自戒し自責の念でもって諦めるという選択をしているのだと思う。それこそ夢を口に出すとそれが叶わなくなってしまうメソッド(逆の夢は口に出した方が叶うメソッドもしかり)の真相である。言葉は呪いであるからして、それに縛られてしまうのだろう。
言葉を用いてごまかすのはまるで呪文のようである、例えばマインドマップとかだろうか。僕はまだ試して無いのでよく分からない。


シンプルに考えよう。
理想と実働が合わないのがなにより問題なのだ。理想を下げる、というのも一つの方法だが、問題は堕落していってしまうという事だ。
だが、この理想の設定値というのはすごい重要だと思う。あと、理想とは何か、自分は結局何がやりたいのか、という定義付けも大事。
僕なりに今後試していきたいと思っているのは理想と実働を切り離す、という多少アクロバティックな方法である。


実働とは一体何なのかという方向で考えたとき、実働を支えているモチベーションとかバイタリティとかやる気とかいうものがあって、それは別に理想の有る無しに関係無いのではないか。
じゃあ一体何がそれらを生み出しているかというと、全くの謎である、まあしいて言うなら健康な肉体がそれを生み出している、だろうか。だからこそ鍛錬は重要なのであるが、でもそれだけでは無いような気もする。もし、ガンになって余命一年って言われたらすごいモチベーション上がると思うんだよね、それは健康な肉体がやる気の源泉という証拠と矛盾している。
おそらく精神と肉体のバランスとか、境界とか、まさにそのへんがこの問題の核だと考えている。


やる気の源泉は一体どこにあるのか、その謎は深まるばかりである、それはまるでぽっかりと開いた深い穴である。闇に煙ってその深淵すら見渡す事のできない、深い深い穴である。「なんて深い穴なんだ」人はただそう呟いてその場にへなへなと座りこんでしまう事しかできない、そんな穴である。

鍛錬である

鍛錬して、まずは身体を鍛えれば、精神も鍛えられ、人生の高みへ上っていけそうな気がするんだけど、なかなかできんわなあ。
特にこの季節。これ書き終わった後ちょっとでも良いから身体動かしてみるかの。ちょっとでも良いから前進するという結果こそが大事なんだと思うんだよね。


かんなぎのナギには母性があって良い。
「なんじゃ、鍛錬せぬのか?」脳内でそんな台詞が聞こえてきた。
ナギの声優さんはすごいね。
今期アニメは面白いのが多すぎる。つか、アニメというものは絶対に面白いに決まっているものだ、何たって絵が動いてるっていう、それだけで面白いじゃないか。