非モテとか以前に、そもそもモテるとは何か?

ある時、とてもモテる友人にwebサイトを作ってくれと言われたので、その当時流行っていた「エンピツ」というサイトを紹介した。
友人はそこで日記と詩を書くようになった、それは一般的なそれなりに面白い日記とほどほどにロンマンチックな詩のように見えた。だが、すぐに多くの人が見に来るようになった、少なくともその頃僕が一年以上書き続けていたテキストサイトよりも多くの訪問者が居た。
そして驚くべき事に読者からメールを貰うという、それも女の子である、一人だけではない。さらには現役の漫画家(これは男性で某雑誌に連載を持ってた今は知らない名前忘れた)がメールを送ってきたりしてた。
一度読者の女の子と友人と僕の三人でメッセンジャーでチャットした事がある、自分のwebサイトの読者の女性と仲良くなるなんて事、――いわゆるネゲットである――、ネゲットなど都市伝説だと思っていたが、それを実際に目の当たりにしたのだからもはや認めざるを得なかった。
別に顔写真を載せていた訳でもないし、高学歴なわけでもなければ、特殊な能力を持っていた訳でも無い。ただし、現実でもモテていた奴は、そういうモテる話を日記にも書いていたように思う。もちろんそれだけが理由では無いのだろうが。


日記と現実はリンクするのかもしれない。現実でモテている事をネット上の日記に書くと、ネット上でもモテる。
だとしたら日記で書いた事は現実にも起こる、なんてのはファンタジーに過ぎるが、中川翔子は実際にこれをやっている。ネット上の人格や人気をそのまま現実に反映させている訳だ。


しかしそもそもの根源である、「人にモテる」という事については、理屈では説明できない領域があると僕は思っている。それは一つの才能である。
だとしたらモテる才能があり、同時にモテない才能というのも存在するはずである。
モテ云々以外でも同じように、他にも常に見せしめにされる才能とか、教室で皆がしゃべっているのに自分だけ注意される、というのは誰にでも一度ぐらいあるが、それが人生の中であまりにも頻繁に起こる、なんて事無いだろうか、もしあるという人がいるなら、その人にはそういう属性がある、そういう才能の持ち主だと言える。
もちろん才能や属性じゃない部分もある、ただ声が大きいから目立って注意されるのが他の人より多いとか、ちゃんと理屈がある場合などはそれを改善すれば良いだけ。
しかし属性や才能には簡単な理屈では説明できないナニカがある、そしてそれは現実だけではなくネット上にも作用する。問題はそれを理解してどう活かすかという事なんだと思う。

心の機微アニメがもっと見たい

今期アニメのとらドラ!
「自分で自分を天然だと言う人間にまともな奴はいない」という台詞が出てくる。それは天然を装っているだけで、すべて本人の計算によるものだ、というような文脈で語られている。
この台詞はある意味アニメキャラクターの破壊である。
何故ならすべてのアニメキャラクターは作者の計算によって作られているからである。
そもそもこの台詞を言っている、このアニメのヒロインこそツンデレの権化の様なキャラである、「じゃあお前のそのツンデレは計算では無いのか」と問われた瞬間おそらくこのヒロインの存在は崩壊してしまう、いやこの物語の世界そのものが崩壊してしまう。それほどまでに危うい、恐ろしいまでにギリギリのところを攻めている台詞だと言える。
しかもこの「天然or計算」問題はすぐに終わらない、その後の物語の中でもけっこう深く掘り下げようとする、人間は誰しも素のままではいられない、作った人格で生きていかねばならない、というような事まで語る。
そもそも、この物語は人の「心の機微」をとても敏感に描こうとしている、人対人における関係性の中で、リアルに登場人物の思考をトレースしている。
これは萌え系に分類される作品の中では珍しいのかもしれない。まず間違いなくハーレムアニメでは有り得ないだろう。
あと、「ヒャッコ」とか「みなみけ」みたいなコメディ作品にも皆無な要素だと思う。
最近だと「狼と香辛料」が一番「心の機微」を描こうとしてるんだけど、原作の小説とアニメ版ではそこが一番違う、小説の方が何倍も心の動きを敏感に捉えようとしている、あとアニメ版の悪いとこは、服とか街とかがさっぱりした雰囲気なところ、原作の世界観はもっと厳しくて暗くて汚い世界だと感じる。
とらドラ!」も原作は小説だから、本来文章の方がそういうのが向いているのかもしれない。とらドラの場合、アニメになって良くなったのは、ヒロインの目の大きさと動き、実際に見るとこれは文章では表わせられない説得力がある。

しんどい事2

思うところあって、頻繁に日記を更新していきたい。


RSSでたくさんブログ読もうと思ったけど、その時間でアニメ見た方が何倍も面白いがな、と思った。はてブホッテントリとその他チラホラぐらいで十分。
いやマジで最近目が悪くなりすぎてる、画面見えん。眼鏡買えん。


しんどい事はしなくても良い、
なんて書くと、ダメ人間である事を開き直っている、と思われるんじゃないかと、ついつい体裁を気にしてしまいがちである。そういうしがらみから自由になりたい、
しんどい事はしなくても良いメソッドの効果とは、自分の中にカウンセラー的な人格を作る事である。「しんどい事はしなくても良い」なんて社会では通用しない、という矛盾を理解しつつも、それをあえて一時療法的に肯定する必要がある。これが他人による肯定の場合、一番重要かつ難しいのは信頼関係である。しかし、僕が僕自身を肯定する場合においてはそのかぎりではないのだが、自分自身を信頼する事もまた難しい事だったりする。
僕は僕を信じるが故に、しんどい事はしなくても良いと言い聞かせる事にしている。

しんどい事

行動を起こす最初のきっかけ、スタート、が弱い。直したい。
特に二回目(日が変わった二日目)のスタート時、やる気が全く出ない。やる気が出なくても出来るようになりたい。
思うに前回の自分の不甲斐なさを思い出し、そしてその先の長く険しく過酷な遠すぎる道を行く事を想像して、暗澹たる気持ちになるのがまずいのだろう。ただ前進する事のみを喜びと感じたい、実際そう感じれる時もあるのだ。
嫌でも不安でもやる、ただひたすらやれ、考えるな、と思っていたが嫌ならやらなくていいじゃん、と今思った。どうにも、この「嫌な事をやらなくちゃ」という思い込みにも似た強迫観念がそもそも、やる気を削ぎ精神を磨耗させているような気がする。超自我による抑圧というのがこれに当てはまるかと。


「嫌な事をやらなきゃならない」では無く「しんどい事をやらなきゃならない」という方が正確。それほど身体が弱かった子供時代だったのかも、たしかに普通の子と同じように生活するだけでも超しんどかった、小学生ぐらいの頃に「プー太郎」という言葉を知って、何もしなくても良いなんて素晴らしい、と憧れた思い出があるぐらいだ。
しかし、実際そういう立場に立ってみると何もしない事が一番しんどい、という事に気付かされる。「しんどい」からは逃げられないのだ、人間を止めるなんて事をしないかぎりはね。


ではどうすれば良いか、人間を止める事は僕には出来ないが、とりあえず倫理観など邪魔なだけ(哲学さえあれば)なので捨てようと思う。
しんどい事はやらなくても良い。しんどい事はやらなくても良いのだよ。そうだったしんどい時は無理しないでも良いのだった。
と言い聞かせる事にする。

水伝よりクオリアに興味がある

人間の精神は本当に不思議だ。何でも無いものに影響を受けたりするところが凄い。
例えば、言葉である。
言葉なんて、本当に何でも無い、ただの記号であるのにもかかわらず、何故こんなにも人間の心に影響を及ぼすのか。
しかもその影響は無意識の範囲にも、むしろ無意識の方にこそ深く大きな影響を与えたりもする。


「水」が言葉に影響される、いやそんな訳無い、ていう話が今アツイみたいだが、そんな事よりも人間は間違い無く言葉に影響される、っていうこの事実の方が僕にはびっくりである。
つまるところ、人間もただの物質にすぎない。だのに、なぜ言葉などという非物質の影響を受けてしまうのか、げに恐ろしきは、人間の精神が仲介する事でそれをたらしめているという仕組みである。
非物質と物質との変換こそが人間の精神の大いなる謎だと言える。


この日記は僕の頭の中の非物質を、このように物質世界のパーソコンとイーンタネットで認識できるぐらいには、物質として具現化されている訳である。
そんでもって、それ自体がマジで超不思議で興味深い、つまり僕の頭の中の非物質を、訳の分からないエキゾチックマニューバ(仮に)的な作用で、物質として出力し具現化するそれこそが芸術だと僕は思っている。


ではこの日記、読む人が居なくても良いのか? という疑問が生まれるが、それは僕がこの世に生を受けてから、いや受ける前から、人類にとっての命題である。
今の所の答えとしては、人類総芸術家もしくは芸術化の途中であるとする。そして芸術の目指すところは非物質と物質の融合である。つまり人類の目的がそれである。


でも科学的に見れば、芸術って人間の精神が生み出した幻想だよね。なぜこんなにも芸術に惹かれるかというとそれは脳のソフトウェアの仕様を利用したバグでしかない。
だとすると人間の精神とは結局脳の生み出した幻想でしか無くなる訳だが、では何故言葉のような非物質に影響を受けてしまうのかという謎が残る。
毎日冷蔵庫のペットボトルの水に「腐れ」と語りかけてもすぐに腐ってしまうなんて事は無いだろうけど、人間に毎日「死ね」と語りかけたら、その人が本当に自殺しちゃう事はありえてしまう。いや、ほんとそれって超凄い、不思議すぎるんだけど。

音楽から始まって思った事を長めに

凛として時雨 DISCO FLIGHT
http://jp.youtube.com/watch?v=1a6ezWELuEk
凛として時雨 - Sadistic Summer
http://jp.youtube.com/watch?v=SyMFSOpG7zc

根底に90年代邦楽、ヴィジュアル系メタル(初期ルナシーとかか)あとビーイング系とかも足した感じ。さらに上層部にナンバーガールとかロッキンジャパン的なのを足してぐちゃくちゃに混ぜて、調和してない感じ、調和というか衝突w
○○系とかナンセンスなんだけど、このバンドは最初聞いた時衝撃的なので、分析せざるをえない、分類不可能だけどあえてするならという。いや音楽とか素人なんで分からないんだけども、単純に邦楽すげえ、ていう。こんなバンドが出てくるなんて90年代当時の僕は、いや誰も予想してなかっただろうし、つーかこんなバンド今まで見たこと無い。好き。



髭(HiGE)ロックンロールと五人の囚人
http://jp.youtube.com/watch?v=6lDy_3xo4dc
髭(HiGE) 「Electric」
http://jp.youtube.com/watch?v=OBCJpKxGjTc

日本語ロックもここまで来たかという。誰もが夢見た日本語とロックの完全融合を果たしたんじゃないかと。ボーカルの人が「たま」に影響受けたって言ってて、なるほどと、日本語ロックに足らなかった成分は「たま」だったかと。日本語ロックのなんたるかを分かってらっしゃる。
聞いててめちゃめちゃ気持ち良い。いちいち僕の好きな感じにドンピシャで、特にElectricていう曲は超気に入ってる。つかこのバンド売れるねw



今バンドでマキシマムザホルモンがセールス的にも内容的にも無敵(勢い的に)だと思うんだけど。多分次のアルバムで隆盛を極めるんじゃないかと。それと平行してまた新しい良いバンドが出てきてるこの邦楽バンド界がすげえなと単純に思う。


そういう意味で邦楽HIPHOPはなんだろ、いや個人的には好きだけども、これぞ! というのは無いね。個人的にはネット発のラッパーに期待してる。らっぷびとは別名義の時から聞いてたんだけど、他にも凄いラッパーは居てるし、しかも全然違うフローでメジャーの人よりも個性的だったりする。


あと以前好きだと書いた、スパルタローカルズはドラム脱退後の曲があんま良くないのがすごい不安。B-DASHに関しては先が見えないぐらい全てが不安w 僕の人生と同じぐらいw


それから、マーティ・フリードマンとかモンキーマジックとか、あのへんの外人の人は何なの?
考えた。
この前「ソフィーの世界」ていう哲学史の本読んだんだけど、インド・ヨーロッパ語族は「見る」文化、セム語族は「聞く」文化、だと書いてあって。
このセム語族というのはユダヤ人の事で、言わば「ユダヤ教」や「キリスト教」なんかにもこの「聞く」文化は影響を与えてるとの事。
つまりヨーロッパは元々「見る」文化だったんだけど、キリスト教によって「聞く」文化に変わって(中世)、ルネッサンスで再びローマ時代のヘレニズム文化のような「見る」と「聞く」を融合した文化を得たと、その本では書いてあった。
で、日本について考えてみると、「見る」文化しか無い。「聞く」のはあんまり重要じゃない文化のまま今に至るじゃないかなと。目は口ほどに物を言うとか、見て覚えるとか、阿吽の呼吸とか。
グーグルのストリートビューで、日本人だけが強い抵抗を感じているという記事が、日本でも海外でもネットの話題になった。日本は見る、見られる事にすごい敏感な文化だから。


じゃあ「聞く」文化って何だろう。と僕は本読んでからずっと疑問に思ってて。これは実際に海外に言って実感しないと分からないのかもしれないけども。
例えば「都市の声を聞く」という表現について、日本語訳されたアメリカ人の文章をネットで見たんだけど(URLと人名は失念)、ほぼ「雰囲気」とか「空気を読む」と同じ意味で「都市の声を聞く」という表現を使っていた。ベンチャー企業が集まっている都市では、何か自分も起業しなければと思わせるような「都市の声が聞こえる」みたいな使い方。日本なら「都市の声」とは公に対する世論とかの要望のようなイメージで使うので、そこに文化の違いを感じた。この場合日本なら空気を読むと表現する、「読む」である、これはつまりまんま「見る」文化。


なるほど、日本人は「聞かない」故にはっきり「言わない」と考える事も出来る。
欧米はその逆なのだろうか、ちゃんと「聞いて」くれるのか、とかこれも実際に体験してみないと分からない事。


そこでマーティ・フリードマンである。日本で大成功を収めたミュージシャンが一転してそれまでの音楽性と全く違う海外の音楽にハマるなんて事が有りえるだろうか? 元々ワールドミュージクっぽいテクノとかをやってる人とかぐらいしか想像できない。例えるなら元XJAPANの誰かが、台湾のアイドルグループにハマるみたいなw 有り得へんw 彼が特別なのか、しかし少なくとも彼の評論を読む限りマーティ・フリードマンは音楽を「聞く」という事に拘っている(そのセンスはどうあれ)。


そんな事を考えながら、オリンピックである。
ついでに、ちょうど時期を同じくして「家畜人ヤプー」(江川達也作画の漫画版)を読んで、この本は白人に対する日本人のコンプレックスをこれでもかと突き詰めて書かれた本(衝撃を受けた、原作買おうと思う)なので、文化の違いを含め、そういう視点でオリンピックを見てた。
途中で民族とかどうでも良くなってきたw そういう枠みたいなものを超えるぐらいの突き抜けたところに「家畜人ヤプー」という作品はあるというか、そう思わせてくれる。匂いが臭すぎて、匂いに拘る事がバカバカしくなるような感じ。
家畜人ヤプー」には、民族のさらに外というか根本に、ジェンダーとか男女間の差別とかもあって、これにも衝撃を受けた。女性って美女と野獣カップルに嫌悪感を抱いたり、ダメ男と付き合ってる女性の目を覚まさせて更正させようとしたりするよね。あれは何なの?


あと、それまで外人のエロ画像は全く興味無かったんだけど、探してみた。金髪碧眼はそんなに白くない、というか日焼けしてグラデーションっぽい肌になってるのがステータスらしい、なんか英語で金色の肌的な呼ばれ方してたと思うけど忘れた。
むしろ黒髪の白人のが白い、多分日焼けしたら赤くなりそうな感じの白さ。んでさらに白いのが赤毛。ちなみに欧米では赤毛は嫌われている、差別の対象との事。
家畜人ヤプー」にはそのへんの誤解(肌が白ければ白いほど良い)というか、当時の日本人の欧米に対する幻想があると思う。「痴人の愛」を読んだ時も同じ事思った。
同じ頃の時代にアメリカ人が書いた「ライ麦畑でつかまえて」を読んで、それが幻想である事が分かった。白人は全然崇高な人種じゃないって事。
ただしサリンジャーの本だいたい読んだけど、グラース家のどれかで一人暮らしのマンションに冷房があったりとか、50年代ぐらいかな、生活水準の高さにびっくりした。そら戦争負けるわ、と思った。

逆説による経験主義の再興

経験というものを一度放棄して、その先にあるものを見よう、あるいは俯瞰で見ようとしてきた訳だが。ここにきて、「経験しない」を経験する事によって、経験というものの全貌が見えてくる。


これは矛盾である。
でもこのような一見破綻した論理は昔から色々な所で真実だと語られてきた。
東洋哲学でよく出てくる逆説がそれ。


ぎゃく‐せつ【逆説】
(paradox)
#衆人の受容している通説、一般に真理と認められるものに反する説。「貧しき者は幸いである」の類。また、真理に反対しているようであるが、よく吟味すれば真理である説。「急がば回れ」「負けるが勝ち」の類。
#外見上、同時に真でありかつ偽である命題。

経験については置いといて、前回から引きずってる「希望」という言葉を用いて、逆説から導き出せる事を書いてみたい。


「希望は絶望の始まりである」という逆説が成り立つ、これは僕が考えた逆説。
明日一億円拾うかもしれないという希望があるとして、同時にそんな訳が無いという悲観があり、やっぱり無かったという結果に絶望する。
希望を持ってしまった時点で絶望してしまう、絶望するなとか、絶望しないようにとか、自分の思考をコントールするんだ、結局無理である、頭で分かっていてもできないから。
「希望=モチベーション」と仮定してみるとライフハックっぽくなって理解しやすいだろうか。
つまり、モチベーションを得た、それを意識した瞬間からモチベーションは消えようとしている訳だ。また、モチベーションを上げようと意識する時に、以前の何もやる気が無くなった時の経験が蘇り、どうせまたああなるんじゃないかと考えてしまい、さらにモチベーションが下がってしまう。


では人間はどうすれば良いというのだろう。


希望を持たなければ良い。モチベーションなど捨ててしまえば良い。
希望を持たずに努力する事こそ本当の意味で希望的であり、モチベーションを捨てて仕事を淡々とこなす事こそ最も意欲的である。


このように、逆説から導き出す方法論はあらゆる事に共通していて、応用できる。
つまり、希望が欲しいなら、希望を持たない事でそれが叶う、という事になる。


さて、ここで経験主義に戻ってくる。
経験とは結局道具でしかない、という結論を先に書いておく。
経験という道具を使って何かを知ろうとしている訳で、それが経験主義の正体。
何を知ろうとしているか、欲望、愛、金、仕事、家族、人間関係、自分、未来、過去。
例えばSEXの絶頂における感覚を知りたいとか。
人に認められる事がどんな気持ちか知りたいとか。
その欲求は何だ? 本能なのか理性なのか。
その答えを知るために逆説を用いる必要がある。


人間には「経験して知りたい」という欲求がある。「経験こそすべて」という経験主義では、その欲求に振り回されてしまう。結果、欲望に支配され、何も知る事が出来ない。しだいに感覚は磨耗して鈍感になり、好奇心が無くなり、心が老いる。
そうならない為に、本当に「経験して知りたい」ならば、経験というものを一度放棄すれば良い。
重要なのは「知る事」で、事実経験しなくても知る事はできる。


経験を放棄し、想像や疑似体験で世界を本気で知ろうとすれば、最終的にどうなるかというと現実は崩壊する。
それほど経験や現実というのは簡単で代替の利くあやふやな物である事が分かる。成人した人間一人の、その後の人生経験を、すっかりその人間の頭の中だけで再現できてしまう、という事。


んで、そうなると今度は、経験や現実をないがしろにしすぎて、頭でっかちになってしまい、新鮮さを失い、思考がループして、これもまた結果的に「知る事」ができなくなってしまう。
そして、一周回ってまた経験に戻ってくる。
すると肉体からのフィードバックの重要さに気付き、理論の実践を試したくなってくる。


ぐるぐる回る訳じゃなく、同時にやるのが理想。
同時に逆の可能性を考える。
何かを知って、壁に当たり上手くいかなくなったら、それと逆の事(どのように逆なのかは臨機応変に)考えたり行動したりしてみる。