逆説による経験主義の再興

経験というものを一度放棄して、その先にあるものを見よう、あるいは俯瞰で見ようとしてきた訳だが。ここにきて、「経験しない」を経験する事によって、経験というものの全貌が見えてくる。


これは矛盾である。
でもこのような一見破綻した論理は昔から色々な所で真実だと語られてきた。
東洋哲学でよく出てくる逆説がそれ。


ぎゃく‐せつ【逆説】
(paradox)
#衆人の受容している通説、一般に真理と認められるものに反する説。「貧しき者は幸いである」の類。また、真理に反対しているようであるが、よく吟味すれば真理である説。「急がば回れ」「負けるが勝ち」の類。
#外見上、同時に真でありかつ偽である命題。

経験については置いといて、前回から引きずってる「希望」という言葉を用いて、逆説から導き出せる事を書いてみたい。


「希望は絶望の始まりである」という逆説が成り立つ、これは僕が考えた逆説。
明日一億円拾うかもしれないという希望があるとして、同時にそんな訳が無いという悲観があり、やっぱり無かったという結果に絶望する。
希望を持ってしまった時点で絶望してしまう、絶望するなとか、絶望しないようにとか、自分の思考をコントールするんだ、結局無理である、頭で分かっていてもできないから。
「希望=モチベーション」と仮定してみるとライフハックっぽくなって理解しやすいだろうか。
つまり、モチベーションを得た、それを意識した瞬間からモチベーションは消えようとしている訳だ。また、モチベーションを上げようと意識する時に、以前の何もやる気が無くなった時の経験が蘇り、どうせまたああなるんじゃないかと考えてしまい、さらにモチベーションが下がってしまう。


では人間はどうすれば良いというのだろう。


希望を持たなければ良い。モチベーションなど捨ててしまえば良い。
希望を持たずに努力する事こそ本当の意味で希望的であり、モチベーションを捨てて仕事を淡々とこなす事こそ最も意欲的である。


このように、逆説から導き出す方法論はあらゆる事に共通していて、応用できる。
つまり、希望が欲しいなら、希望を持たない事でそれが叶う、という事になる。


さて、ここで経験主義に戻ってくる。
経験とは結局道具でしかない、という結論を先に書いておく。
経験という道具を使って何かを知ろうとしている訳で、それが経験主義の正体。
何を知ろうとしているか、欲望、愛、金、仕事、家族、人間関係、自分、未来、過去。
例えばSEXの絶頂における感覚を知りたいとか。
人に認められる事がどんな気持ちか知りたいとか。
その欲求は何だ? 本能なのか理性なのか。
その答えを知るために逆説を用いる必要がある。


人間には「経験して知りたい」という欲求がある。「経験こそすべて」という経験主義では、その欲求に振り回されてしまう。結果、欲望に支配され、何も知る事が出来ない。しだいに感覚は磨耗して鈍感になり、好奇心が無くなり、心が老いる。
そうならない為に、本当に「経験して知りたい」ならば、経験というものを一度放棄すれば良い。
重要なのは「知る事」で、事実経験しなくても知る事はできる。


経験を放棄し、想像や疑似体験で世界を本気で知ろうとすれば、最終的にどうなるかというと現実は崩壊する。
それほど経験や現実というのは簡単で代替の利くあやふやな物である事が分かる。成人した人間一人の、その後の人生経験を、すっかりその人間の頭の中だけで再現できてしまう、という事。


んで、そうなると今度は、経験や現実をないがしろにしすぎて、頭でっかちになってしまい、新鮮さを失い、思考がループして、これもまた結果的に「知る事」ができなくなってしまう。
そして、一周回ってまた経験に戻ってくる。
すると肉体からのフィードバックの重要さに気付き、理論の実践を試したくなってくる。


ぐるぐる回る訳じゃなく、同時にやるのが理想。
同時に逆の可能性を考える。
何かを知って、壁に当たり上手くいかなくなったら、それと逆の事(どのように逆なのかは臨機応変に)考えたり行動したりしてみる。