細田守監督作品「おおかみこどもの雨と雪」の感想

細田守監督作品「おおかみこどもの雨と雪」を見にいったので感想を書く。
ネタバレ含むので注意。
僕がこの映画で強烈に感じたのは母性のエゴだ。
ともすると、生々しいものになってしまう母性のエゴを、ファンタジー要素で中和してさわやかに、綺麗なお話が出来上がっていると思う。
その生々しさを内包した綺麗さに納得できるかできないか、という所だと思う。


サマーウォーズを田舎の大家族の嫁の視点で観たら」
http://togetter.com/li/342972
僕はサマーウォーズが大好きなんだけど、上記まとめ記事を見て衝撃だったのは、この女性の拒否反応には全く気付かなくて、なるほどと感心した。というか女性はつくづく経験主義的なんだなと思い知らされた。たしかにそういう意味では「サマーウォーズ」はご都合主義的なお話であり、そこに疑問を持ってしまうと崩壊してしまう話なんだろうなと思った。
で、そんな女性のために同じ手法で今作の「おおかみこどもの雨と雪」は作られたと思う。


母性のエゴについて。
僕は偶然に、ちょうど寺山修司の作品集を読んでいて、寺山修司の作品には母と息子の話が多い。彼のエッセイによると、寺山修司の母は戦争で夫を無くし自殺未遂をするがその後立ち直り女手一つで息子を育てる、途中で息子(中学生ぐらいだったか?)を残し出稼ぎに行ってしまう、帰ってきてもうすでに半分自立している息子が家を出て東京へ行くと言うと、彼を引き止め「殺してやる」と言って脅したそうだ。
これはまさに「おおかみこどもの雨と雪」とほぼ同じような話の筋なんだけど、「おおかみ」の方には寺山作品のような生々しさは全く無い、むしろ清々しさすら残るような、一体ここまで違う印象の話になってしまうのかと、疑問に思わずにいられなかった。
つまり、今作も「サマーウォーズ」しかり、そんなご都合主義無いよ現実はもっと酷いだろ、という視点で見てしまうと崩壊してしまう作品だと思う。


寺山作品に「長編叙事詩 李庚順」というものがあって、これは母殺しの話である。主人公の李庚順は自分が朝鮮人の子だと思い込んでいて、これは「おおかみ(略」にも出てくる「隠さなくてはならない普通ではない事」と「差別」という要素としても同じ構造になっている。寺山作品では最終的に息子は母を殺してしまう、しかもそこに憎悪は無い、言葉を付けるとするならそれは息子から母に対する憐れみである。
「おおかみ(略」に出てくる息子も、きっと母を憐れんでいる、最後には見殺しにしたと言っても良いシーンが出てくる。でも見る人にとっては美しく清々しいシーンになるように作られている、おそらく作者もそういう美しい感動的なシーンとして作っているはずだ。誰もそこに生々しさは覚えないだろう、直前に寺山修司作品なんかを読んでる奴がいないかぎり。


しかし、そこに演出のずるさを感じずにはいられない、まるで「サマーウォーズ」がご都合主義的SFや大家族の中での女性の奴隷的扱いを隠蔽するような演出がある事と全く同じように。「おおかみ(略」には母親のエゴの生臭さを隠蔽するような演出がなされている。
例えば、母親のエゴを感じさせないために、それ以外の事柄について必要以上に踏み込んで生々しい演出をしている。


おおかみおとこが死ぬシーンの不条理な残酷さが強烈な生々しいシーンは、その後の母の落ち込みが小さい事を隠すための演出として機能する。あんな死を見てしまったら自殺未遂ぐらいしそうなものだが、立ち直りは超早い、子供のためにすぐ田舎に引越しちゃう。夫はいらなかったのだ、まるでジョディ・フォスターのように。


おおかみおとこの先祖は、かつてオオカミと人が交わったという、それって獣姦じゃん。それは呪いなのでは? という疑問も持たず、すぐセックスする、避妊もせず。で、妊娠する。だからそれが呪いの元なのでは? という疑問を、少女漫画のセックスシーンのような上半身裸で抱きあうというちょいと生々しい演出で誤魔化す。おおかみおとこも胸毛とか生えてそうなのにツルッツルなのはそういう理由かと。


母のキャラについて、まず母親が若い、可愛らしい(←けして美人では無いところがポイント、美人だとすぐ男作りそうだと勘ぐりたくなるが、そういう艶めきは全くない素朴な顔、つか完全に羽海野チカフェイス) 授乳シーンでの乳首やら、しゃがんだ時のジーンズ後ろから見えるパンツとかの無防備さ。我慢強さ、勤勉さ、人付き合いの良さ。
それらのたくさんの美点が彼女の母としてのエゴを隠している。しかし現実にそんな母は存在しないのだ。それを隠すために、宮崎あおいがいる。パンフによるとキャラデザの時点から宮崎あおいを参考にしているそうだ、つまり宮崎あおいという実在の人間の力を借りて、本当にこんな母がいるんじゃないかと思わせてしまう、そういうキャスティングだと思う。それぐらい宮崎あおいとキャラがハマリまくっている。


その後の家族は描かれない。その後を描いてしまうとある疑問がよぎってしまう、人狼の子孫は繁栄していくのだろうか? 誰にも世間にもバレずに? 途端に現実感が無くなってしまう。その後を描かない事で、見てる人それぞれの立場で子を残すという命のリレーの一員としての責任感と自尊心を意識させる演出。


そんなところだろうか。
端的に言って、僕は「おおかみ(略」を見ながら上記のような演出について、やりすぎだと思った。「サマーウォーズ」の良さはご都合主義を隠さなかった事だと思う、むしろ開き直っている、だから僕は受け入れられた、僕の中でのアニメはそういうものだからだ。
今回の「おおかみ(略」はまるで「北の国から」のようにTVドラマ的である。演出によって良い話にしようとしすぎている、さらに人狼というアニメ的ファンタジーを利用して、気持ちよくなりすぎてしまう。そして僕は寺山修司作品の母子ものを読んだばかりなのだから、その演出に気持ちよく引っかかるわけがない。


それ以外で良かった点は、積み重なる日々の美しさ。何かを大事にしようとする心。それらの美意識がこの映画のどこというでも無く全体にあって、それが非常に良かった。それらはもしかしたらアニメでしか表現できなかった事なのかもしれない。それを映画見た次の日ぐらいに思った。

おおかみこどもの雨と雪

さて、再びここに戻ってきたという感覚だ。しかしなんともまあ、臭いところである。青臭さと簡単に言ってしまうと言葉に意味が集約されすぎてしまうが、思わずウィンドウを閉じるかブラウザの戻るを押してしまうような、すぐに立ち去りたい、むせかえるような、匂い立つ、しかしそれはまさに生の匂いなのかもしれない。
ここのサイトの管理者は、「ここに俺はいるぞ」と書いている。書いていない間はつまり、彼は死んでいるのだ。
ならばサイトを更新して書こうじゃないかと思う、「俺はここにいるぞ」と。まだまだ生きていたいと望んでいるのだ。


次に、あらためて、言葉はやっぱり美しいと思う。その美しさを言葉そのもので定義できない、というところが重要な点だ。それは不完全性を表している、つまり不完全だから良い訳だ、もちろん全てに応用できる何事にも。


揺れる心にクサビを打つような、そんなノートを綴りたい。
矛盾だらけの腐ったサイトを動かして、また放置してを繰り返して繰り返して。
僕の好きなようにやろう。


全部だ。

人間関係とは何なのか

虚しいぐらいに何も伝わらない、お互いに何も。
唯一敵意だけが、拒絶反応のように単純に、パッと色が変わるかのように現れる。
もはや人間としての尊厳をお互いに失っている、その場に居ることで、私の人間性が踏みにじられていく。
では人と人の関わり合いとは一体何なのか、お互いに歩みよるために人間は他者と関わろうとするのではないのか?
そうか、歩みよりたくないのだ、関わりたくないのだ、否定し、拒絶したいのだ、それはまるで私と同じではないか。
私の行き着く未来の姿、歩みよりを避け、関わりを避け、否定し、拒絶した、その末路、敵意と不幸をまき散らした姿。
なんと憐れな。
なんと醜い。
救いようがない。
しかし、社会は、この国は、この世界は、そのような人で溢れている。
どこに行っても見ることができる。
家族や身内の中にも、ご近所の隣人、電車の向かいの席、会社の上司、趣味の仲間、ネットの知り合い、自分自身、どこにだっている。
どうすれば良いというのだ。
私はただあなたと仲良くなりたいだけなのに。
どうしてそれができないのだろう。
私がそれを望んでいないからなのか、あなたがそれを望んでいないからなのか。
お互いにその責任を押し付けあっている。
ゴリゴリと押し付け合い、隙あらばのしかかろうと企んでいる。
子泣きじじい!」
「俺にのしかかって来んじゃねえ! この、子泣きじじいめ!」


もう分かった、もう何もかも私が悪いという事にしよう。
責任を押し付けたければ押し付ければ良い、のしかかってもくれば良い。
私はそれを避けてかわすスピードを身につけよう、それを受け止めうるタフさを身につけよう。
敵意を向けられてもそれに動じず、拒絶されてもそれを許容できる、そういう精神を育もう。
論理でも感情でもなく、ただそこにある傲慢さという悪を許そう。
人間の醜悪な闇の部分を認めてやろう。


その代わり、光を、この世界に光を。
平穏を、愛を、安寧を、慈しみを、いつかその価値の偉大さに気付けるのではないだろうか。

童貞とかっ!


http://anond.hatelabo.jp/20110811033545


ついつい童貞というキーワードがある記事は読んでしまう。
昨今のブームである童貞礼賛とか童貞蔑視とか等しく的はずれだと思っている。でも読んじゃう。ビクンビクン。


僕は31歳童貞なので、それについて何か書いておくべきなんじゃないかと思った。


彼女居ない歴=年齢なので、女性と付き合った事すら無い。
しかし恋という感情が無い訳ではないし、性欲が無いわけでもなく、女性が嫌いな訳でもない。


最近「鈴木先生」という漫画を読んだんだけど、そこに全部書いてあった。僕がSEXや恋愛や結婚について思う事が全てその漫画の中に書かれてあった。
だから「鈴木先生」を読めと言いたい。ドラマにもなってるからそれでも良いよ、と言いたい。


鈴木先生」は中学校の先生の話なので、僕は自分が中学の頃の事を思い出した。
僕は自分の性欲に罪悪感があったので、それを許すために、SEXは神聖なものでなければならい、と考えたのだと思う。つまり生殖を覚悟したSEXであるべきだ、それ以外の理由では僕はSEXをしないんだい! いや少なくとも最初のSEXはそうであるべきだ、とそう決意していた事を思い出した。


そして今に至る。今も中学生の頃と変わらず同じように考えている自分がいる。
これの一体何がおかしい? どこが間違っている? どのへんが一般的に理解できない理屈だと?
っべーわ、自分でも忘れてたわ、31歳童貞でも別に良かったわ。
中学生の頃の自分がしていた決意の、そのほとんどが打ち砕かれてしまっている訳だが、唯一残ったのがそれだったという。


それってあえてやらない訳じゃなく、できない(モテない)だけで、ただの言い訳じゃないのか? というツッコミに対して。結論はどっちでも良い。正直もはや暗示にかかっているような状態なので、SEXする覚悟が決まるまでまともに恋愛できないと思う。


つまり、いまだ私という人間は、SEXをしうるほどの人間ではない。まだ早い。

震災で何が不謹慎で何をすべきなのか問題

命より大切なものがある、と言って争いが起こり。
命より大切なものは無い、と言って争いが収まる。


うろぼえだけど、銀河英雄伝説ヤン・ウェンリーがたしかそのような事を言ってた。
これはどちらが正解とかでは無く、人間というのはその時の状況や気分によって、180度行動が変わってしまう、という事を言ってるんだと思う。


では、果たして、今回の震災について、
自分や家族の生活を犠牲にしてまで、誰かを救うべきか、
自分や家族の生活が安全なら、誰かを救わなくても良いのか。


これも同じく正解は無いのだと思う。
この二項対立した問題は、お互いが「そうするべき」という自分自身の規範のようなものを信じきってしまっている事だと思う。お互いにその規範を押し付け合い、争いが起こり、最終的に、「一体何人の命が犠牲になっていると思っているんだ?」あるいは「私や家族が死んでも良いのか?」と誰かが言い出す。
「命」という題目が挙げられる。「命より大切なもの」が「ある」か「ない」か、という所まで行き着く。


でも、本当の問題はそんな所には無い、人間というのはその時の状況や気分によって、180度行動が変わってしまうのだから。
問題は、お互いが、相手の意見を全く聞こうとしないで、自分の規範めいた信念を湧き上がる圧力のまま相手にぶつけてしまう事だ。
実はそれをぶつけている本人が、その規範めいた信念を信じきれていないのにだ、いや、信じきれていないからこそ、相手にぶつけてしまう。信じきってしまっている人は、ただ黙って自分の信じる行動を取っている、誰にも押し付けたりしない。


迷える僕らは、まず冷静になって、相手に意見をぶつける前に、よく考えて、そして話し合えば良い。この問題に一般論的な正解は無いのだ。それでも、もし、正解だと思える事があるなら、それはきっと個人的な理由に基づくはずだ。だから、それを信じたいなら、ただ黙って行動にうつせば良いんだと思う。そこでまた対立が起こったら、また冷静になって話し合う、その繰り返し。
難しい事だけれども、この問題ってそれこそ近代における人類のテーマなんじゃないか、とすら思える。

上手くいかねえなあ。どうやったら思い通りの生活ができるのかね。とりま、心と体のバランスが鍵となっている事は間違い無い、だとしたら身体の問題だわな。僕の心は割と丈夫だから……、などという傲慢がここ最近の堕落の原因なのかも、と思ったり。
たしかに、思い当たるふしがある、なるほどなるほど、こうして書く事はやはり重要なのかもしれんね、少なくとも心にとっては。こんなクソみたいな愚痴を吐き出せる場所があって良かった。


身体的な問題の解決は積み木を積み上げていく作業。――身体的、または物質的、現実的、そこにある、触る事のできる、問題。
精神的な問題の解決は捨てていく作業。――精神的、または観念的、あるとされているようでない、価値があるようで無い、問題。
※原則として身体と精神の問題はお互いに影響を及ぼす。


精神的な問題の解決は得意のつもりでいたけど、やはりこれは難しい。捨てると自棄になるのは違う、「許す」と「切り離す」のは違う。外に捨てるのでは無く自分の中に捨てる、許して離れる訳ではなく同一である事を許す、そうして残ったくすぶっている燃えカスを集めて丸めて、その辺に転がしておく、コロコロ〜、共に歩む。


共に歩む。
自分と共に。
言葉を超えて。
精神の世界はかくも深淵である。

○○の書く歌詞は、私の事を理解してくれている

しかるべき場所に描かれた絵は高尚で価値ある芸術と呼ばれ、不適切な場所に描かれた絵はクダラナイ落書きと呼ばれる。誰をも魅了する歌手も、その歌手のアパートの隣人にとっては騒音でしかない。
絵を見ようとする姿勢、歌を聞こうとする姿勢、何か芸術を評価する時に、それを理解しようとする姿勢はすごい大事。
芸術だけに限らず、何かをあるいは誰かを評価しようとする時、その対象を理解しようとする姿勢は前提として必要な条件であるべき。
誰か人物を評価する時、家族を、友人を、客を、上司を評価する時、流行りの歌を評価する時、社会を、政治を、経済を、人種を評価する時、すべての評価に対となって「それを理解しようとする姿勢」が必要になってくる。


でも誰もそんな事は気にしない、小さな虫を踏んづけてしまうかの様に簡単に評価を下す。そもそも理解なんてしたくないのだ、理解したいと思うものだけ理解しようとする、理解したくないものは理解しようとしないのだった。
「人は信じたいと思うものしか信じようとしない」という言説と同じ理屈だ。デフレと同じ理屈だ。
「僕の事を誰も理解してくれない、だから僕は誰も理解してやらない」というスパイラル、あるいは懐古主義的なものが流行っているのは、それだけ今の新しい時代に疎外感を感じているせいなのかもしれない、「ネットの存在が俺を否定する」とかね。


心ある人よ、理解しようとする事から始めようよ。そこから全てが始まって、連鎖していくはず。ネガティブでデフレな連鎖の影響がこんだけあるのは間違ってるし、その反対のポジティブな連鎖ができないはずがない。そう! あなた達です!とか本当はこういう事をテレビで言うべきだと思うんだけど、聞いた事ないな。