○○の書く歌詞は、私の事を理解してくれている

しかるべき場所に描かれた絵は高尚で価値ある芸術と呼ばれ、不適切な場所に描かれた絵はクダラナイ落書きと呼ばれる。誰をも魅了する歌手も、その歌手のアパートの隣人にとっては騒音でしかない。
絵を見ようとする姿勢、歌を聞こうとする姿勢、何か芸術を評価する時に、それを理解しようとする姿勢はすごい大事。
芸術だけに限らず、何かをあるいは誰かを評価しようとする時、その対象を理解しようとする姿勢は前提として必要な条件であるべき。
誰か人物を評価する時、家族を、友人を、客を、上司を評価する時、流行りの歌を評価する時、社会を、政治を、経済を、人種を評価する時、すべての評価に対となって「それを理解しようとする姿勢」が必要になってくる。


でも誰もそんな事は気にしない、小さな虫を踏んづけてしまうかの様に簡単に評価を下す。そもそも理解なんてしたくないのだ、理解したいと思うものだけ理解しようとする、理解したくないものは理解しようとしないのだった。
「人は信じたいと思うものしか信じようとしない」という言説と同じ理屈だ。デフレと同じ理屈だ。
「僕の事を誰も理解してくれない、だから僕は誰も理解してやらない」というスパイラル、あるいは懐古主義的なものが流行っているのは、それだけ今の新しい時代に疎外感を感じているせいなのかもしれない、「ネットの存在が俺を否定する」とかね。


心ある人よ、理解しようとする事から始めようよ。そこから全てが始まって、連鎖していくはず。ネガティブでデフレな連鎖の影響がこんだけあるのは間違ってるし、その反対のポジティブな連鎖ができないはずがない。そう! あなた達です!とか本当はこういう事をテレビで言うべきだと思うんだけど、聞いた事ないな。