江東マンション殺人事件と無償の愛について

http://sankei.jp.msn.com/etc/090113/etc0901131231000-n1.htm
全部読んだ。
秋葉原の通り魔もそうだが、この事件の犯人も結局「無償の愛」みたいなものを求めてたようだ。かたや無償の愛が得られない事に絶望して、こなた無償の愛を得る為に、人間を止めた訳だ。人間らしい「愛」を求めていたくせに人間らしからぬ行動に出るとは、まったく皮肉な話である。


一つ疑問なのが、いわゆるモテない男である喪男達(僕も含めて)、彼らは皆一様に理想の愛の形を持っている、その大半が「無償の愛」、つまり絶対に裏切られない、自分を決して嫌いにならないような無垢で打算の無い好意である。その好意をお互いに同じぐらい持つことこそが彼らにとっての理想の「愛」である。では、喪男でない普通の人に「理想の愛とは?」という質問をしたらどうか、やはり同じような答えが返ってくるのではないかと思われる。「無償の愛」という概念はモテるモテないに関わらず一般的に見ても、正しい理想の愛と言えるんじゃないだろうか。
しかし、この理想像は一体どこから来たのだろう? 喪男達(僕を含めて)はモテないので愛を知らないはずである、なのに理想の愛がどういったものか知っているとはこれいかに。


単純に母親(あるいは幼少期の保護者)からの影響を受けているのだろう。親が子に与える愛こそ「無償の愛」だと言える。
それがいつのまにか異性に対しての性愛とリンクして、すり替えられてしまっている。
なぜそこがごっちゃになってしまうのか……。
あれだ、クリスマスという行事にも同じ事が言える。本来家族で過ごす日であるはずのクリスマスが、現代の日本では恋人と二人だけで過ごす日になっている、というすり替え。愛の意味が違う。もはや日本語の「愛」という言葉は、大衆が共有する妄想にすぎない。一体どうしてそうなってしまったのか、誰の何の影響で、何のためにそうなったのか、それを考えるべきなのかもしれない。
多分「愛」という言葉に宗教的重みが無いから、「愛」と「欲望」が同じ意味でも誰も気にしないのだろう。


ところで僕は童貞なので、愛について何も知らない。でも、愛について何一つ知らなくたって、誰かと「仲良くしたい」という気持ちは知っているし、そういう気持ちを常に持っていたいと願う。同時に、他の人達皆がもっと仲良くなれば良いのにと思っている。恋人とだけ仲が良いとか、家族とだけ仲が良いとかじゃなく、皆が皆と仲良く過ごせば良いのにと思っている。僕はその輪のはじっこにでも居れば良いかと、そういう風に思っている。