過去に自分がした選択の正しさ

僕が自分の事で幸運だと思うのは、善悪の判断において基準みたいなものをわりと労せずに持てた事。


善悪の判断は、人によってはそれこそが人生のテーマにもなり得る事で、人生において超重要な要素だと僕は考えている。とても頭の良い人でも、その事が分かっていない人がいる、ライフハックとか本とかたくさん読んでも、そこは分からないらしい。人生に成功しようが失敗しようが、悪い奴は悪いし良い奴は良い、どちらの側に付くかは今すぐ決める事が出来る。自分のやってる事は正しいか正しくないか。
という風に突き詰めて考えると、果たして自分は良い人間として正しいつもりで生きてきたが、本当にそうだろうか? という疑問が生まれてくる。では正しいとは一体何なのかと。


これは人類の宿命的悩みだと言ってもいい。この善悪の問題にすべての人が悩まされている、という事実をまず認識するべき。思うに、この問題に悩まされている人っていうのは、善悪というものを個人的なものと軽視しているが故に囚われているようにも見える。
このように善悪を語る事に対して、僕はいささかの躊躇も無く書ける。この問題の答えは僕の中でははっきりと出ている、ただしそれを読んだからって他人がそうかと納得できる訳では無い。最終的には自分で考えて納得しないといけない、それは誰にとってもある種の神秘体験のようなものになるはずだ。


その答えというのは超単純なもので。結局、人は間違うから、失敗したら反省して次間違えなければ良い、また失敗したらその次だ。その姿勢こそ正しいと言える。常に正しい者でありたいと願う事こそが善であると。


これ多分、僕が19から22才ぐらいの間にずっと考えてた事で、当時は「自分を許す」という表現を使ってた。その間の酷かった時は一年ぐらい僕は引きこもり状態で、冒頭で書いたように簡単に答えを出したと言えないかもしれないけど、一生かかっても納得できる答えを出せなかったり、途中で自殺してしまうような人もいるので、僕は幸運だったんだと、今になってそう思ったりする。


興味深いのは、当時の僕は全く何も自覚していなかったという事である。当時の認識としてはすべてのやる気が無くなり、何をするにも臆病にになったというだけである。
しかし今思い返すと、それにはちゃんと理由があり、そうするべきだったと思える。無自覚に自分に必要な手段を選んでいる、それが不思議である。
その当時考えた事を、その後の22才から現在まで実際に行動して確かめるように実践してきた気がする。今になってあの時悩んで考えてた事が、本当に大事な事だと分かってきたマジで。やっと身についた、という感覚、血となり肉となり骨となった。


そして今、僕はまた再び前後不覚に陥っている。今回は、以前のようにやる気が無くなるという訳ではなく、やりたい事がありすぎるという事である。やりたい事というよりも、やらざるを得ない事がどんどん出てきて、それに対しての興味も意欲もどんどん出てきて、一体俺は何をしたいのか状態なのである。
しかもそれら全てがまったく何の関わりも無い、バラバラのもので、その上これっぽちも役に立たない。
ちょっと前まで、その事で真剣に悩んでしまって、これはもっと一つの事に集中するべき、という暗示なのだろうか無意識の、とか考えたり。どうにかそれらの興味の根源を探って、共通項を見つけて一貫したポリシーのようなものがあるんじゃないかと考えてみたり。結局何も無い、全くの無節操だった訳だが。


そしてこれ、またしても、人類に共通の宿命的悩みであると言える。やりたい事が二つあって、二つともやるべきか、一つは捨てるべきか。もう少しふさわしい例え方をするなら、共通のリソースを食い合うものが二つあって、どちらか一つを捨てるべきか、捨てずに共存していくべきか。
僕は今、二つともを選ぶ共存の道を選択している、二兎を追っている、二君に仕えている、それが正しいかどうか正直分からないけど、そうありたいと願う。今回も僕は知らず知らず、最善の選択をしているのだろうか。二兎を追うための、二君に仕えるための、「何か」を学ぼうとしているのかもしれない。まあ今のところどちらも中途半端なので結論と言及は避けておく(何をやってるか詳しい事はmixiに書いてたりする)。また何年かしたら答えが出ているのかもしれない。