スタンスのスタンツ(Stunts of stance)

最近、松本人志のインタビューをいくつか見た。
印象に残ったのはこの二つ、
「普通の人はみんな俺よりも頑張ってる、俺も頑張ろうと思った」
「他人にこれ美味しいから食べてみ、て言ったら、いや美味しくないわて拒絶されるのは辛い」


一つ目は、昔のインタビュー動画。同窓会で久しぶりに会った友人を見ての感想。
二つ目は最近の映画がらみのインタビュー動画。自分の作品が評価されない、分かってもらえない事を例えて言った言葉。


二つ目、これはクリエイターなら誰しもが経験あると思う。
さらに、みんな松本人志と同じように、他人に理解されないのは嫌に決まっている、どんなクリエイターでも同じのはず。
違ってくるのは、その後どう思うか、どういう行動に出るかの違いで、全く違ったクリエイター、作品、になっていくと思ったのでそれを書きたい。
一つ目の言葉はただ印象に残ったよ、という報告として書いてみただけw


仲の良い友達、大好きな恋人、愛しい家族、彼ら愛すべき人たちと自分が感動した体験を共有したい、という誰しもが持つ欲求からまずは始まる。
その感動体験は、食物だったり本だったり音楽だったり、様々であるが、自分が超感動したからといって、相手も同じように感動する訳じゃない。いまいちな反応だったり、全然興味を示してくれなかったり、そして決定的な拒絶の言葉である、
「何それ、そんなので感動したの? キモイ!」
そう言われた瞬間、まるで世界に独りぼっちのような、まるで裏切られたかのような、暗闇の奈落に落とされたような、空が落ちてきそうな、神の名を思わず叫んでしまいそうな、そんな感情になる。
そういう体験、この比喩表現はおおげさとしても、誰でもが経験のある事だと思う。


多くの人が自己防衛として学習するのは、皆にキモイとかツマラナイとか言われない物を好きになろうとする。皆と同じ物を好きになれば拒絶される事は無くなるからだ。つまりそれこそが、流行の源である。普通の人。


次に、自分の好きなものを他人には秘密にする。あるいは他人と感動を共有しようとはしない。自分だけがその良さを分かっていれば良いのだ、と思っている。こういう人の場合は、そもそも人との付き合いが苦手なので共有したい欲求があまり無いという傾向がある。ここから広義の意味でオタク、現在のオタクの大多数がこのタイプ。言わばオタク消費者。


どうしても他人と感動を共有したいタイプ。僕はこれこそオタクの本質だと思っている。これの暗黒面がウザイオタクである。つまり相手の話を聞かないで自分の興味のある分野しか話さないオタク。中年以降のオタクに多いように思う、柔軟性の乏しさが原因かと。
逆に、ポジティブなタイプは、雑学王になる。なぜなら相手の好みや世間受けする物を分析するようになるから。つまり、なぜ皆あの作品には好意的なのに、自分の好きな作品には批判的なのか、と考えるようになる。一番考えるのは、メジャー作品とマイナー作品の相違である。そうするとメジャーマイナー問わず、幅広い知見を自然に得る事になって、メジャー作品の良さも分かるようになる。オタク雑学王。


重要なのは、何をどれだけ知ってるとかではなくて、それを他人と共有する事ができるか、共有したいと思っているかどうか、あるいは拒絶された時の対処や、拒絶されないような対策ができるかどうかである。
アレだ、この作品が好きとか、このキャラが好きとか、好き好き萌え萌え連呼してオタクを自称してる人が多いけども、何故好きなのか、何故自分はそのキャラに萌えるのかを語り得てこそ、よりコアなオタクであると僕は思う、そのアピールを言葉にして伝えないと、感動の共有ができないから。
もちろんこれらの分類は明確ではなくグラデーションで境界は曖昧である。


では、クリエイターとしてどのスタンスで居れば正解なのかと言えば、そんな正解とかは無いw どのスタンスでも面白い物は作れる、というのが正解w
しかし、もし評論家になりたいのならば、間違いなくオタク雑学王のスタンスである、つまりいかに他人と自分の感動を共有する事ができるか、そればっかり考えてたら、その先にあるのがオタク評論家だと思う。


で、オタクが作った作品が好きなのはオタクであり、普通の人が作った作品が好きなのは普通の人である、という法則があると思う。どの層の人に向けて作るかによって、クリエイターの居るべきスタンスというのは決まってくるだろうと、それは自然にそうなってるだろうなと。


今これを書きながら、昔ネットで何年も前に見て感銘を受けてメモっておいた文章を、今まさに思い出した。孫孫引きだが、これがクリエイターのスタンスとして正しいのだと思う。出典は不明、引用元はすでに閉鎖、あしからず。

その頃(引用者註:エロ本編集者時代)、おれは東京芸大によく遊びに行っていた。予備校時代の友達が入学していたからだ。おれはそいつにつきあって一般教養の講義を勝手に受けていたのだが、そのとき偶然ながら、文化人類学者・西江雅之氏の授業を聴いたのである。
目の玉が飛び出るくらい面白かった。おれはたまたま最初の授業を聴いたのだが、西江さんは「文化とは何か?」というテーマでこういう話をしたのである。
「あなたたちは芸術家の卵だから、自分を取り巻いている鉄格子のような価値観から逃れて自由になりたいと思っているでしょう。自分が自由でないと自覚して、そこから逃れようとするのが芸術家だから。では、その檻から出たらどうなるでしょうか。そこにはきっとまた別の檻があります。この檻がすなわち文化です。人間社会というのはジャングルジムのように文化という檻が無限に連鎖している。人間が人間である以上、そこから脱出することは不可能です。
では、そこで自由を求めるならどうすればいいのか。唯一、人間に許された自由を享楽する方法は、そのいくつもの檻と檻との間を行き来することです。檻から脱出することは無理でも、檻から檻に移動することは可能です。つまり、旅人になるのです」
これこそは以後のおれに決定的な影響を与えた「旅人の論理」である。


これは目の玉が飛び出ても仕方が無いと僕も思った。これは目の玉が飛び出るタグである。今回のエントリ消して、これだけ乗っけようかと思ったw



前回、ちょっと否定的な事を書いて、やっぱりすぐに後悔して、このサイトを閉鎖したくなったw けど、アレ書かないと今回に繋がらないのでしようがない。
あと僕はニコニコ動画めっちゃ見るし、見る時はコメント表示にするし、たまに非表示にもするし、でもやっぱり気になって表示したりとか、すごい自由に見ている。
クリエイターについては今後も書いていくけど、今回でだいぶ書きたい事書けた感じがした、次からはダラダラペースで行く。今もそんな感じだが。
あと、オタキング(岡田なんとかって人)のwebで無料で読めるテキストのどれかに、「オタクとは好きな作品についてどうしても人に語ってしまう人の事」というような(うろおぼえ)一文があって、これはすごい共感できて、今回のエントリの参考になっている。
あとこのオタキングなんとかって人は最近『プチクリ』というプチクリエイターの略という意味の本を書いてて、クリエイターという言葉に興味深々の僕が読んでそうだが、読んでないのでその内容と一連のエントリは全く関係無いw