痛みを楽しめ!

ダメだ、ダメダメだ、俺はダメだダメだ俺。また逃げてる、あれだけ逃げ倒しておいてまだ逃げてる。ふいー。
アレだ、逃げに一家言ある僕から言わせてもらえば、しんどい事から逃げても結局しんどい、むしろ逃げる事の方がもっとしどかったりする。これはもう間違いないね、さんざん体験させられたもう本当に。ここでいう逃げるとは、嫌な事を避けて、何もしないでサボるという意味。
普通、他の人の場合、逃げるというのはやるべき事を放り出して好きな事をして遊ぶという意味のようだ。
僕の場合、やるべき事から逃げて、遊ぶ、という事ができないのだ。
逃げる時はとことん逃げるというか、暗い部屋の片隅で毛布被ってガタガタ震えるぐらいしか思いつかない、それ以外やりたくない、何もしたくないってなる。


うすうす気付いてはいた、何年か前ぐらいから分かってた、そんなん嘘やと思ってたけど、「何もしない」てしんどいわマジで。
でもすぐその事を忘れる、というか判断力が鈍るぐらいビビってるのか何なのか、記憶力が非常に悪いのでそのせいにしよう。なので常に言い聞かせよう、「何もしない」が一番しんどいのだと。
そもそもしんどい事なんて、実際実行してみたら案外しんどく無いものである、注射みたいなものだ。
例えば今から引越しのバイトを行かなきゃいけないなんて事態になったとして、まあ僕みたいな小男はビビりまくる訳だが、多分家出る前とか吐き気を催すと思う、でも実際現場に出てやってみれば何のことは無い、のではないだろうか。いややった事ないから分からんけど。
洗濯機を運ぼうと狭い階段を上って、途中で耐えられなくなって手の力抜けて落として、弁償あるいは怪我みたいな事態をやる前から予測してしまい僕はガクブルするだろう。しかしそのような惨事がもし起こったとして、終わってみればただの笑い話である、つかネタ一個できたである、すべらない話である。


ファイトクラブのタイラーダーデンが言ってた、いや「殺し屋1」のマゾのヤクザだったか、どっちでもいいけど、「痛みを楽しめ!」と。
自らをドMと称して憚らない僕としては、これには頷かざるおえない。
どうしてもビビってしまうというなら、ビビっているその緊張感すらを楽しめと、恐怖心こそ痛みの前奏曲である、あえて屈辱を舐め逆境に立ち向かえと、醜く這いずり恥辱にまみれる事をこそ至福と感じろと。「痛みを楽しめ!」という言葉にはそういった、価値観の逆転現象というか、既成概念を取っ払うかのようなすがすがしさを内包していると、そう僕は解釈している。これ書きながら、ちょっと勇気出てきたw


中途半端が一番ダメなのだと思う。一線を越えて吹っ切ってしまえば価値の逆転が起こる、僕の場合はそうみたいだ。
これは去年のなかごろにも確信を得た事ではるのだが、もう普通の生活というか、堅実であり幸福であり、しかし平凡な生活や暮らし、そのような僕が思う普通の人が送るであろう人生というのは、僕には無いだろうと。僕の目指すべきとこはそこじゃない、そんな自分を想像できないし、すでにそのルートから大きく外れてしまっている自分に気付いたw。
もう普通じゃいられないのだ、一線を越えて生きていくしかない、ひな鳥が飛び立つみたいに、もうだいぶ置いてけぼりを食っちまったけどね。


ネットを見渡してみれば……、一線を越えてる人は沢山居ることが分かる。たしかに普通の人生を送ってる人に比べれば明らかにマイノリティではあるが、その分自分の人生を楽しんでいるように見える。僕もそうなりたい。まだやりたい事の1%も達成できてないっちゅーのに、ネットでは十代でやりたい事やって稼いでるようなぶっ飛んだ一線を越えた人間がごろごろ居るのだ(それも女の子だったり、そーいう若くして成功してる場合多くが家族の理解と愛情をもらってるのが典型だと思うがあえてそうはっきりとここに書く事は控えておく)。なんかまた卑屈になってるw そうそう「痛みを楽しめ!」だ。泥沼から這い上がっていけと、そう僕の中のエア師匠(脳内)がおっしゃっておられるのでそのように。