東京タワー

リリーフランキーの東京タワーを読んだ。
これはエッセイという括りでいいのかな、それとも純文学か。純文学って何? エッセイ=純文学なのかも、物語風エッセイみたいな、いや分からんけども。分からないから知りたいんだけども、特にどうしても知りたい訳でもないので、ほったらかしにしてる。


さておき、東京タワー読んで、九州って面白いと思った。武田鉄也(海援隊)の歌で「母に捧げるバラード」ってのがあって、そのほとんどが九州弁の台詞で構成されてる曲で、「東京タワー」と「母に捧げるバラード」は同じソウルを感じる。なんだろうこの面白さは、しかもそれが共通してるって事は、やっぱり九州っていう場所が面白いとしか思えない。
九州国ってのがあるんだろう多分、島国だし。今の九州の若者はどうなんだろうか、やっぱり共通するソウルを持ってるんだろうか。
ひるがえって、僕は大阪に住んでるんだけど、大阪はどうだろう。近すぎて分からない、という事はきっと九州の人も近すぎて分からないという答えか。
でもやっぱ九州は島国っていうのがでかいと思う。そう考えると大阪なんて今はもうテレビとかメディアの影響受けて、大阪魂みたいなものって無くなってきてるっぽい。なんか九州行きたくなってきた。


あとは家族の話。そして死ぬという事。
最後読みながら泣くのをずっと我慢してた。ここで泣いてしまうと、今までの僕を裏切るような、ひいては未来の僕をも裏切るような気がしたからだ。
最近読んだ糸井重里の文章↓がずっと心に引っかかっていて、最近僕が考えているテーマになってる。「東京タワー」を読んだ後の今、やはり僕はそのテーマについて考えている。

‥‥荒野にね、ひとり歩いてるような
俺なんです。
そんな奴は「勝手にしろ」と、
神様も救わないと思った。
人には何かのつながりがある。
でも、それは契約のつながりじゃなくて、
依存のつながりを前提にしないと、
しっかりつながれないんだと思うんです。

http://www.1101.com/petit-cre/2006-03-13.html

ぐわああ、って叫ぶ感じ。本当は独りで生きたくなんか無いのに、なんで僕はこんな感じに育ってしまったんだろ。まあいいや、自分が子供という立場での家族はもうしょうがない、選べる訳じゃないから。自分が親として家族を作る立場になった時には、こうしようああしよう、と考えるしかない。
友達や恋人(居ないけど)に対しては抵抗無く依存できる気がする、今までその依存に対して自己嫌悪する時もあったけど、その迷いはもう無くなった。と思いたい、少なくとも今後は「荒野にひとり歩いてる」なんて思わずにやっていきたい。