楽と苦

時代みたいな事を考える、みたいな事というか、時代とか世代とかについて。
40代、30代、20代、という三世代を一つのセットとして考える。それ以上に古い世代はまた別の世界、新しい世代も20代まで、それ以下はまだ世代と言えるような兆候が表れていない、とする。


40代より上の50代以上の世代は平和では無い、高度経済成長を支えたといってもそれが果たして平和だったかと言うとそうでは無い訳で、少なくとも幼少期から余裕のある暮らしをしていた訳では無い。おそらく40代ぐらいからやっと平和の兆しが見え始めた頃なんじゃないか、と思う。
つまり40代、30代、20代、という世代はここ何十年かの日本で、かつてないほどの平和の中生まれた世代と言える。
しかも若い世代になればなるほど、平和で安穏な生活のレベルは増していって、20代の世代でほぼピークを迎えたと言っていい。


注目すべきは、こんな平和な時代でどのように、生き、生活し、人生を送れば良いのか、近年の日本でその参考とすべき例が無いという事。
日本の歴史を遡って探せば一番今の状態に近いのは江戸時代にまで戻ってしまう。その江戸時代の生き方をそのまま現代に持ってきて、例とするのはあまりにも無理がある。
しかし「江戸時代」を知る事はものすごい現代を生きていく上で重要な事だとも思う、つまり現代の文化と江戸時代の相似性を探してそれに習う、あるいは現代に適用できるように変化させるのはかなり面白いと思う。だから落語なんかはまさにその当時の文化であり、江戸時代の庶民の生き方をメインにとらえた話なので、今落語が流行っているとするならそれはすごい頷ける。


江戸時代については僕もあまり詳しく無い、今後は「江戸時代」というものがもっとフィーチャーされていくと思う。いや今も「江戸時代」は注目されてると思うけど(「大江戸でござる」とか、でも「ござる」て言うてる時点でなんか上っ面だけな感が僕はする)もっと例えば、江戸時代って僕はものすごい怠惰な時代やったと思うねんけど、その頃の怠惰な文化とか雰囲気とか何故堕落していったかとかを知りたいんやけど、それを知りたいと思ってる人は少ない。
世間の興味がある江戸時代とは、侍とか浮世絵とか今のところそういう文化芸術の類(外人が誉める日本の文化みたいなとこ)に向いている、これは懐古主義的つか伝統を今にみたいな事でほとんど意味が無い。でも予言すると、いずれ影響力のある誰かが「江戸時代と現代の相似性」とか言い出すんじゃないかな、もしくはそういう方向に世間の興味が向かって行くだろう。だからそれはその時に色々考えれば良いので江戸時代については終わり。


現代を生きる三世代について、平和という観点の次に注目すべき事は、分岐点の時代だという事。戦争から平和という分岐でいうなら世代の範囲を変更するべきだけど、そんな単純に戦争から平和に切り変わった訳じゃなく、その間に「混沌」という時代があったと思う。戦争→混沌→平和という流れだったはずだ。
現代の40代はちょうど混沌から平和へグラデーションのように移り変わって、ようやく平和という時代に生まれた人達。
40代の世代を端的に表すなら、「戦争」「混沌」の世代から教訓や遺産を継承し取捨選択する能力が必要な世代。この世代の特徴は、「人生に必要で無い物」に対してどう評価すれば良いか分からない人が多い。つまりそういう事を上の世代から教わってない。中にはどうすれば良いかをアメリカとか西洋の慣例に習う人も多い。


30代の世代を端的に表すなら、平和な世界でどう生きるべきか、そのベクトルの方向を決定する能力が必要な世代。この世代の特徴は、流行という物を偏屈なまでに重要視する、つまりどこに向かえば良いか不安に思っている。
皆がやっている事をやろうとしたり、その逆としてあえて誰もやっていない事を探してやろうとしたり、そこに拘る人が多い。トレンディーという言葉が死語になってなお、30代の人の頭の中では未だトレンディーという言葉の概念は生きている。


20代の世代を端的に表すなら、平和な世界でいかに堕落せずにいられるか、モチベーションを維持していくための持久力が必要な世代。この世代の特徴は、すでに色んな事に飽きてしまっている人が多い。物事を惰性でぼけっと見てるので楽な方へ楽な方へ行く、あるいはその逆としてあえて苦しい事をしたがる。「楽」か「苦」かを重要視している人が多い。


40代、30代、20代、その特徴ははっきり区別できる訳じゃなく、グラデーションになってあやふやに変化していってると思う。もちろん例外もあるし、ただの僕の個人的な印象にすぎない。
20代の僕は、30代や40代の人達はものすごい苦労して今の地位とか職種についているっていう印象が今まであった。特に成功してる人程そういう苦労を背負ってるはず、そうじゃないとおかしい、という風に思い込んでるけど、実はそうでも無いという事が最近分かってきた。
少なくとも向き不向きで職種を選ぶというよりも、「成り行きで」という人が多くて、偶然その職種に適した能力を持ってたという感じ。また逆に自分にとって楽な仕事ほど自分に向いてる仕事だ、という幻想もある。そんな訳無くて、これも単なる偶然っぽい。
20代の人でそんなのは信じられない、納得できない、と思う人多いんじゃないだろうか。実際僕もそう思ってる、今これ書きながらも思ってる。


では、どう考えれば自分の中で納得できるか、という考え方を思いついた。
今僕らはまあ高卒ぐらいならば色々な職種の選択肢がある、人生の生き方としてもなんでもアリなんだからそれこそ無限大に選択肢がある、皆ああなりたいこうなりたいと願う。この選択肢の自由度は過去に例が無い程だろう、僕らの上の世代に行けば行くほど選択肢は少なかったはずだ。
その変わり自分が「なりたいもの」や「やりたい事」を達成する為には、昔の人よりも多くの努力や苦労をしなければいけない状況になっているんじゃないだろうか。
それは単純な理屈として「やりたい事が分からない」とか「やりたい事がいっぱいで迷うから中途半端のまま終わる」とか「ハングリー精神が無い」とか、そういうのもあると思うんだけど、そんな単純な理屈じゃないような気もする。
何か運命というか因果応報というか、昔は様々な理由で望んだ職種に就けない状況があって、でもある程度は神がチャンスを与えてくれたが、今は選択肢を自由に選べるのでそんな風に助けてはもらえない、そういう考え方もできる。そういう風に上手い事出来てる、としか言いようが無いけど。


今後「楽」と「苦」を重要視する考え方からは逃れられないと思うけど、僕らより上の世代の教訓をそのまま受け入れる事が正しいとは限らない。自分にとっての「楽」と「苦」がどういう事かの答えを出して、それに沿ってやっていくほか無いと思う。