秋葉原通り魔事件について考えた事を書かざるを得ない

秋葉原無差別殺傷事件の犯人が書いた携帯サイトの内容を見た。
元の携帯サイトは閲覧できない状況なので何とも言えないが、それでもいくつかの書き込みは犯人が書いたと確信できるものが記事や写しとして見る事ができる。


この犯人は異常者では無い、本当の意味で確信犯である。自分は悪である、だから悪を成すべきだ、それが正しいと思ったんではないか。
また、自分の殺人欲求が間違っている悪だとするなら止めて見せろ、と社会(あるいは神)を試しているようにも思える。
いかにも幼稚な倫理観であり、宗教的な面で見れば、現代的な神、偶然を司る都合の良い神を信仰する無知な宗教観だと言える。
(ちなみに、本当の唯物論者や無神論者は、神が存在しない事に絶望なんてしないし偶然を当てにしない、何より宗教や神についてよく知ろうとして、その過程を経て神は居ないという結論を出している)


犯人に「自分は悪だ」と信じさせたものは何だったのだろう、と考えてみる。
「愛は地球を救う」という文言が思い出される。
どうやらこれが、日本人の新しい倫理観になりつつあるように思う(メディアが大勢の思想に影響を与えるという意味でも)。それを認めるべき段階に来てる。
ただしまだ不完全で、愛を知らない人間は悪である、と受け取る人がたくさん居て、犯人もまさにそれを信じたんじゃないだろうか。
本当は愛を知らない人間こそ、愛で救うべき対象なのに。
少なくともこの事件を犯す前の犯人は、愛というものを信じていたが、愛を知らない人間であり、つまり愛で救うべき人間であった。しかも別に深い大きな愛ではない、ほんのちょっとの上辺だけの愛で良かった。
例えば、職場の誰かの「気にするな」とか「大丈夫か」とか、掲示板サイトで「がんばれ」「負けるな」「やめとけ」とか、たったその一言あれば、もしかしたら、少なくともその日犯行に及んでなかったかもしれない。
それだけに、そんな小さな愛すら与えられない自分は救われる価値の無い者であり、悪であると思い込む事ができたのではないか。
そんな事で善と悪を判断する事が間違っているのだが、では正しい判断の方法を知ってる者がどれほどこの日本に居るのかは疑問である。
(今回の事件で、人命救助に加わらず、野次馬としてカメラを撮っていた人が大勢居たが。彼らは悪だろうか? )


「愛」という言葉を、別の言葉に置き換えても良い、社会貢献、宗教、道徳。
例えば社会貢献が人間にとってなによりも大事だと信じるならば、社会貢献に参加できない人こそ社会が救ってやるべきでありその為に福祉があるはずで、その対象が悪では無い。
しかし、それぞれ信じているものが違うから、簡単に本当の意味で人を救う事はできない。だからといって違う思想を悪だとするのは、人類が何千年も前から行っている愚かな行為である。