非モテかくあるべき

僕よりも不遇の立場に居る人や不幸を感じ絶望してる人、今にも死にそうな人とか、そういう人が間違いなく居てる、僕が想像してる以上に居てるだろう。もちろん僕よりも幸福で充実した毎日を送っている人も居る、こちらも想像以上に。


似たような事を前も書いたような気がするけど、つまり他人と比べる人生ってマジでナンセンスだ。最近ブログとか読んでて思う、特に非モテの人のブログ。
非モテの人の書くブログと言えば悲観による自分を卑下した内容だが、そのほとんどが僕よりも優れている人や、僕より一般的に勝っている人ばかりだ。
そのように、「あの非モテのブログは悲観ばかりだが、僕よりも全然イケてるのに、それを見てイケてない僕は余計悲観してしまった」なんて事を同じように書いているブログを見たのだが、それを見てさらに悲観するのが僕だ、というか「ふーん」と思いながら見てたら、ちょっと待てよ、よく考えたら俺もっと酷いやん、と思って惨めな気持ちになった。


バカバカしいのだ。
非モテの人は仲間だと思えるし、僕と似た境遇や気持ちを感じている人が多いと思うから、感情移入するし、色々考えてしまうけど、それでもやっぱり、他人と自分の人生を比べる行為はバカバカしいのだ。
そもそも悲観や卑下は、謙虚な気持ちを得るために持つべき心情であって、自己憐憫のための悲観や卑下はクソ意外の何物でもない、ここではっきりと書いておきたい、自己憐憫はクソだよ!


自分のために書いている。


では、優越感を得るために他人と自分の人生を比べる行為はどうだろう。結局皆自分が特別な存在だと思いたいのだ。
僕も思いたい。事実、僕にとって僕は特別な人間だ、他人が居なくたってそうだ、いやそれは言い過ぎた。では、それはバカバカしい行為なのだろうか?


他人と自分の人生を比べるのはバカバカしい、では、人生じゃ無く、別の基準で比べるのは良いのか?
例えばモテるモテない。良い。例えばお金持ってる持ってない。良い。例えば健康か病弱。良い。なるほど。一つ一つのカテゴリでは他人と比べても良いのだ。


おそらく、「人生」という言葉や概念自体が他人と比べるべき事柄じゃないのだ。幸福とか不幸とか希望とか絶望とか運命とか、も同じく。
だとするなら、皆平等でなければならない、本当に幸福になるチャンスは平等に訪れるのだろうか、どうしようも出来ない不幸な運命というのは自業自得なのか、そこでどのような因果応報が行われているのか。


それを信じる事ができない人の為に愛があるのかもしれない。
つまり、愛を知る事のできない非モテは世界を無条件に受け入れて信じるしかない、自分を信じるしかない。だから他人と自分の人生を比べる事はバカバカしい行為で、悲観や卑下による自己憐憫はクソなのだ。


では最後に、革命として、あるいは実験として、ここで一つの告白を記しておきたい。
皆は信じないかもしれないけど、驚くべき事に、なんと僕は、自分の事をかっこいい、と思っているのだった。