寂しいから

最近かなり調子が良い。少しずつの変化だが、すべてが上手く行きつつある。
また次の一週間上がっていけるように、ここで気合を入れ直したい。


調子が良い時ほど独りで居たいと思う。その独りが苦では無いと感じる。
かといって、他人が煩わしいわけじゃなく、ただ独りでいる事の方に魅力を感じてしまう。
なるほど。
今度からは、調子が悪くなった時はふさぎこんでないで、積極的に人と会うようにしよう。という風に思いついたが、今調子悪い時を想定してシミュレーションしてみた、それは難しい……。調子悪い時もやっぱ独りになりたい。んじゃ僕は一体いつ独りになりたくないのか? それは寂しい時、孤独は寂しい。寂しいと人と会いたくなる。そういう事。意外に気づいてなかった事、寂しいと人と会いたくなる。それは不思議な感情、意外に気づいてなかったけど、なんで寂しいと人と会いたくなるんだろう。


さて、ここまでの文章は実は昨日書いたもので、途中で眠たくなって寝た。はてなの機能に「ちょっとした更新」というのがあり僕はその機能について、書いた文章を誰にも見せずとりあえず書いて保存しておく、というような機能だと思ってたけどそうじゃなかった。その結果上記のような恥ずかしい文章を晒してしまった。でも特に毎回書いてる内容とさして変わらない内容だとも思う、毎回恥ずかしいのか僕は。


では、なぜ寂しいと人と会いたくなるか、昨日の自分の問いに対しての解答を書こう。
答えは、遺伝子的な事。動物行動学的な事とか。という解答は正解なんだけど、60点。昨日の僕が抱えていた疑問はそういう根源的な疑問では無い。
寂しいは悲しい、のかそれとも、寂しいは楽しい、なのか、という疑問。自分はどう思っているのか、あるいは一般的にはどうか? それならあの人はどう思ってるのか何故なのか? という疑問だ。こういう風に、自分の考えと一般的な考えと誰か特定の人の考えを比べる、っていう事を僕はよくやる。結果、僕が何を求めているかというと、本当に正しい事はどれか、という事を探って確かめているのだと思う。自分の中の寂しいという感情は正しいのか? あなたの思う寂しいという感情は正しいのか? あの人の言う寂しいという感情は正しいのか?



ある人が言う「私は寂しいという感情が嫌いじゃない、むしろ好き。孤独大好き、友達はいらない」
その人に対して僕は、「そうですよね、僕も同じですよ」と言いたいし、事実そう思ってるんだけど、ずっと独りは嫌だなとも思う。
そこで僕はその人にこう言う、「あなたは本当の寂しさを知らないのです、永遠の孤独がもたらす本当の寂しさを知れば、あなたでもきっと人恋しくなるはずです」
するとその人は、「君はそれを知ってるとでも?」と僕に聞く。
「少しの間ですが垣間見たつもりです」
「どうだった?」
「とても怖かったです……、寂しいという感情はとても怖いものだと思います」
「それは寂しいという名前の感情では無いんじゃないだろうか」
「それはどんな?」
「名前は無いよ、人間にはまだ名前のついていない感情がたくさんある」
「ええ」
「あるいは誰かが名前をつける事を拒否してるのかも」
「誰でしょう?」
「誰か……、みんなが」
「あるいは神様がその名前を知っている?」
「すまんが、私は神を知らない」
「そうですか……」
「ああ、そろそろ時間だ、もう行くよ」
「はい、ありがとうございました、さようなら」
「うん、楽しかったよ、また会おう、それじゃあ」


僕はその人と別れ、石畳の街頭を歩きながら考える。寂しいという感情は人それぞれで感じ方が違う、一体誰の寂しいが正しいのだろうか。あの人も僕と同じような孤独を感じれば、僕が体験した本当の寂しさと同じような感情になるのだろうか。思考がぐるぐると回り始めた、良くない。
僕はカフェエに入り休憩する事にした。
大きなガラスの窓から、道行く人を眺めながら、ちびちびとアイスレモンティーを飲む。紅茶を飲むととてもリラックスできる。禁煙してあらためて気づいた事だが、別にタバコを吸わなくたって、自分の感情を落ち着かせようとコントロールする事は容易にできる。例えば呼吸であったり、飲み物を飲む事であったり。


そのカフェエを出る段になって、ようやく僕の中で一つの結論が、というよりも落としどころとして、自分を納得させるための暫定的な言葉ができあがった。それはつまり、意外に気づいてなかった事だが、「孤独は寂しい」「寂しいと、人は誰かと会いたくなる」それは不思議な感情。という事だ。それだけが真実だと確信を持てる、そしてそれが真実なんだったら、きっとその感情は正しいのだと僕は思えるのだった。