人は意外と自分や他人の悪意を認めようとしない

悪意は隠匿されている。
本人すら気付いていないが、したり顔で人生を説く友人達のその内側に、――純然たる悪意、その悪の存在自体をも肯定するかのような悪意が、彼らの身の内に巣くっている。


しかし、それが人間なのである。
彼らの言葉を借りるなら、それが「一般的な」「普通の」人間なのである。
往々にして、悪意は表面上善意にすり替えられる。いや、果たしてそれが本来善意であったのか悪意であったのかは、判別が付かないのかもしれない。どちらも内包している状態というのがふさわしい。
善意も悪意も内包している精神、ほとんどの人がその状態で行動している、その精神を規範に価値判断して、人生を決定している。
ここで言う善意や悪意というのは、魔が差すといったような中途半端なものではない。もう一度言うが、純然たる悪意である、根源的な悪の存在自体をも肯定するかのような悪意である。もちろんその逆である善意の場合もしかり。


渡る世間に鬼は無いという諺? がある、それに対してテレビドラマの「渡る世間は鬼ばかり」というタイトルの方がよく知られているが、これどっちが正しいとかでは無く、両方で「世間」というものを的確に表していると思う。


あまり人と会わない生活をしていると、この隠匿された悪意の存在を意識する機会が少ないので、人間関係を楽観視しがちだ。
現実の人間関係では、常にこの隠された悪意に晒されていると思っても間違いはなく、ある程度の心構えが必要になる、本当の意味での自然体では必ず人間関係に無理が生じる。
悪意は理性や社会道徳に抑圧され隠匿されているが、その枷が外れる時があって、そこでいかに立ち回れるか、いかにその悪意を回避するかっていう技を考えておく必要がある。
自分自身の中の悪意については、言わずもがなである。