マジカルバナナ的哲学

生存競争、いやはや生存競争である。地球創生の頃から連綿と続いてきた生存競争の突端に我々はいるのだから、とにもかくにも生存競争なのである。生存競争で然るべきであって、堕落してしまってはダメだから、かくのごとく生存競争となっている次第である。


しかしながら、ふとこう思う時がある、
――ああ、何もかも全て競争なのだろうか、勝者は笑い敗者は泣き、多大なリスクを背負って運を試し、その事についてのみ神に祈る、万事そのような繰り返しの中に、人は一体何を勝ち得るというのか。


その疑問こそが、僕にとっての哲学の始まりであり、同時に、僕が競争に参加していながら、その歩みを止めて考え始めた理由でもある。


突き詰めて考えると、結局、競争なんて最初から無かった。世界を一方の側面から見た時、全ては生存競争みたいに見えていただけだった。
では、これから何をしようか――。
世界の本質が競争で無いのだとしたら、芸術こそが、明らかに競争でないものの象徴であるかのように思えた。かといって世界の本質が芸術である訳じゃなく、では芸術とは何なのか、全くの謎である。人にとって、芸術や感動といったものは一体何を示唆しているのだろうか。


僕にとって新たな哲学の始まりであり、同時に、僕が創作活動を始めようとした理由でもある。


突き詰めて考えると、結局、芸術と競争は同じものだった、同じものを別々の角度から見ているにすぎなかった。どちらかがより高尚な本質を表しているとかではなかった。


ここに至って、僕は陰と陽だとか、中庸だとかいった思想に傾倒する。つまり観測者のスタンスこそが世界を決定せしめているのではないかと考えるようになった。
同時に僕が様々な事に強い興味を持ち始め、マルチタスクのように同時進行でやっていこうと決めた理由でもある。


そうして、思考は分散し、思想は支離滅裂となる。
それが正しいと思えど、なぜ正しいかは分からず、それがもどかしく辛くもあれば楽しくもある。そんな混沌としながらも茫洋とした思索の中、僕は再びこう思うのである、


――ああ、これをほんの少しでも、万分の一でもいいから、言葉で表現できたらなあ。


それは願いであり、同時に宗教的な祈りであった。


突き詰めて考えると、結局、観測者とその対象との間、そこにあるものは言葉にかぎらずすべてが表現なのだ。表現によってスタンスが決定されているのだ。


こうして、生存競争、芸術、宗教、表現、の名のもとに全てがまるっと収まった。


では、これから何をしようか――。
来年三十、魔法が使えるようになるのか、あるいは、かかっていた魔法が解けてしまうのか。