たまには言及ネットの話題「レイプ問題」

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男性の性欲を女性は理解できない。
男がなんでレイプしたいかって、まず性欲が社会的に抑圧されてるから、ていうのと、SEXの合意て言うけど実質女性側がSEXの承認権を持っているから。


誰が男性の性欲を抑圧してるかって、それは女性では無く、当の男性自身が自らを自制しているわけで、それこそ女性に言われるまでもなく、初めて精通してからずっと片時も性欲について忘れられないけど我慢してきた訳だ。
ある程度以上の性欲のある男性なら、今まで性的な犯罪を起こさなかった自分を誇るような、あるいは女性に対して紳士的であろうとした自分を褒めてほしいと、そんな風にすら思っているんじゃないだろか。
男性にとって性欲とはその多寡に限らず、人生において一つの大きな問題である事は間違い無い。
男性がレイプ問題の議論で感情的になったり責任を被害者に押し付けたくなるのは、男性の多くが自らの性欲がこれ以上無いほど抑圧されている、あるいは自制していると感じているから。


女性はそういう男性が抱える性欲の問題を分かってないように思うというか、知らんがなという態度なのが気になる。風俗行けばいいじゃんで一蹴できる問題では無い。本当に性犯罪を無くしたいなら、そこはもっと考えるべきところだと思う。今すぐ思いつく事だけでも例えば、風俗で代替が効くのならまず法律で風俗を許可する事と、精神科で性欲が強いという認定を貰った人は国から風俗に通う補助金が貰えるとか、そういう事をフェミニストの人とかセカンドレイプ! とか言う人の中に居た試しが無いので、きっとそんな事無意味なんだと思ってるんだろう。まあ風俗に保険適用はあと100年ぐらいはありえそうもないので、性欲を減退する薬を処方してもらえるような制度(カウンセリングも含めて)はあっても良いと思うし、それを受ける人はきっと多い。星新一ショートショートにそんな話があったけど、オチを忘れた。


そもそも、女性は男性の性欲を無くそうとは思っていない。
子孫を残すとか、女性にも性欲が、とか理由はあれど、そういう身体的な事じゃなく、今の社会で男性の性欲が無くなる事で、女性が一番被る不利益はSEXの承認権を無くしてしまう事だと思う。
「SEXの承認権」というものを仮定してそれを焦点にして見た場合、曽野綾子とか言う人は女性の権利であるSEXの承認権は女性が守れ、と言っているようにも見える。で、セカンドレイプとか言ってる人は女性の権利であるSEXの承認権は男性が守るべき、と言っているように見える、で、それを聞いた男性はそもそもSEXの承認権が女性側だけにあるのっておかしくね? と言っているように見える。


SEXの承認権は女性が持ってるんだから、女性はもっとSEXに対してアグレッシブになれば良いのに、と童貞の僕なんかは思ったりする。でも女性からすれば、本当はもっとアグレッシブにSEXしたいけど、アグレッシブすぎると承認権が無くなるから、そんで男にレイプされるのが嫌だからやらないのよ、という事だろうか。なんという悪循環。


合意あるSEXかどうかの境界線が曖昧なのが問題だとか、その表現自体が曖昧だと思う。
多くの場合その境界線を曖昧にしてるのは女性だが、それがただのコミュニケーション不足からくるとは思えない。女性はSEXの承認権を利用して男を操作したい、本当はもっとその権利を利用したいんだけど、利用しすぎるとレイプされるから、だったら承認制を曖昧にして、恋の掛け引きをするの、それがイイ女よ。
女性にとってのそういった掛け引きというのは、差別され迫害されレイプされてきたこれまでの人類史の中で身につけていったものなんだと思う、だからそれに付き合ってあげるぐらいは良いかもしれない、と僕は思ったというか、はたと気づいた、だからモテ無いのかと。


セカンドレイプを無くすためには、もっと女性はSEXの承認権が女性の当然の権利だと主張して、それを社会や文化的に認められるようにするべき。なんかそこの突っ込んだ表現が毎回曖昧に聞こえる、ミニスカートを履いてるからってレイプして良いと思ってる男なんて去勢するべき、とか一見過激なようで誤魔化してる。本当に彼女達が言いたいのは、「私がミニスカートを履こうが誘惑してようが、あんたと私がSEXするかどうかを決めるのはこの私よ!」って事が言いたいんだと思う。で、それが正しいと思うし、それを言えるような社会なり文化であってほしい。

マジカルバナナ的哲学

生存競争、いやはや生存競争である。地球創生の頃から連綿と続いてきた生存競争の突端に我々はいるのだから、とにもかくにも生存競争なのである。生存競争で然るべきであって、堕落してしまってはダメだから、かくのごとく生存競争となっている次第である。


しかしながら、ふとこう思う時がある、
――ああ、何もかも全て競争なのだろうか、勝者は笑い敗者は泣き、多大なリスクを背負って運を試し、その事についてのみ神に祈る、万事そのような繰り返しの中に、人は一体何を勝ち得るというのか。


その疑問こそが、僕にとっての哲学の始まりであり、同時に、僕が競争に参加していながら、その歩みを止めて考え始めた理由でもある。


突き詰めて考えると、結局、競争なんて最初から無かった。世界を一方の側面から見た時、全ては生存競争みたいに見えていただけだった。
では、これから何をしようか――。
世界の本質が競争で無いのだとしたら、芸術こそが、明らかに競争でないものの象徴であるかのように思えた。かといって世界の本質が芸術である訳じゃなく、では芸術とは何なのか、全くの謎である。人にとって、芸術や感動といったものは一体何を示唆しているのだろうか。


僕にとって新たな哲学の始まりであり、同時に、僕が創作活動を始めようとした理由でもある。


突き詰めて考えると、結局、芸術と競争は同じものだった、同じものを別々の角度から見ているにすぎなかった。どちらかがより高尚な本質を表しているとかではなかった。


ここに至って、僕は陰と陽だとか、中庸だとかいった思想に傾倒する。つまり観測者のスタンスこそが世界を決定せしめているのではないかと考えるようになった。
同時に僕が様々な事に強い興味を持ち始め、マルチタスクのように同時進行でやっていこうと決めた理由でもある。


そうして、思考は分散し、思想は支離滅裂となる。
それが正しいと思えど、なぜ正しいかは分からず、それがもどかしく辛くもあれば楽しくもある。そんな混沌としながらも茫洋とした思索の中、僕は再びこう思うのである、


――ああ、これをほんの少しでも、万分の一でもいいから、言葉で表現できたらなあ。


それは願いであり、同時に宗教的な祈りであった。


突き詰めて考えると、結局、観測者とその対象との間、そこにあるものは言葉にかぎらずすべてが表現なのだ。表現によってスタンスが決定されているのだ。


こうして、生存競争、芸術、宗教、表現、の名のもとに全てがまるっと収まった。


では、これから何をしようか――。
来年三十、魔法が使えるようになるのか、あるいは、かかっていた魔法が解けてしまうのか。

家族の風景

家族と僕を繋ぎとめているものは何だろうかと思う。


今日あらためて、自分の家族の食事風景を見て、自分が家族を作る機会に恵まれるなら、絶対にこのような食事風景にはすまいと思った。
と言っても決して不幸な風景では無い、団欒の食事風景なのである。ただ僕の目から見てイビツだというだけで、僕以外の家族にとってはそれが正しい家族の形であり、つまりこのままで良いのだ。僕の方が間違っている。


僕はこの家族では異端なのだ。


もう充分僕はこの家族で上手くやってきた、色んな事を勉強させてもらった、良い待遇や協力や理解もあった、きっと与えてもらった分を返しきれて無いだろうけど、だけどもう、うんざりだ。
自分が異端で家族に馴染めない事よりも、時が過ぎて、僕もいつかこの家族と同じに染まってしまうかと考えると、それが何よりも恐ろしい。


本当はこんな事二十歳前後で気付くべきだったのだろうけど、その当時僕は自分の事で精一杯で家族の事など考えていなかった。
今こそ僕は、家族というものと真っ向から対峙しなくてはいけない。
そこをあやふやにしてしまうと、きっと自らの家族を作る段階になって、何らかの障害を生む事になる。


僕は冷血漢だろうか? 親不孝者だろうか?
家族について考えると、必ずそこで躊躇してしまう。
一体お前は何が不満なのだ、お前以外の家族は皆満足しているのに、お前だけが、となってしまう。
家を出て行った母親の事を思い出す。
「私はこの人と結婚するべきでは無かった」
とは母の台詞だが、当時の僕はそんな身もフタも無い事を息子である僕(すでに成人してたけどね)に言うなよと思ったが、たしかに二人は結婚するべきでは無かった。
かといって母が作る家族に入りたいかと問われれば絶対に嫌である。事実上、子供時代は祖父の元を離れ母が作った家族で僕は生活していたと言えるが、その子供時代も酷かった、二度と戻りたく無い。しかし、それも僕以外の他の兄弟にとっては居心地の良い、楽しかった家族の思い出なのかもしれない。


ここに至って、僕は一生、誰とも、家族として馴染めないんじゃないか? という疑念が僕の心を支配しつつある事に気付く。
たとえ結婚できたとしても、やはり僕はきっとないがしろにされてしまうんじゃないだろうか。まだ見ぬ、存在すらしていない家族にいじめられる様を想像して、思わず僕は呻く。


僕が悪いのだろうか。
僕が偏屈者だから不満に思ってしまうのだろうか。
その不満が家族に伝わり、だから僕に辛くあたってくるのだろうか。


なんて思い悩む必要など無く、家を飛び出せば良い。
こんな事高校生の頃に思いついておくべき事なんだが、何しろ自分の事で精一杯で。
あと、しっかり答えを出してからじゃないと、行動に移せないという厄介な性格も災いしてるのかなと。


ここに答えを書くならば、畢竟、家族とは依存である。
その依存の仕方が好ましいかどうか、自分にとって、相手にとって、家族にとって、公約数的な依存の仕方かどうか、そこを目指せば良いと思う。
そこからあぶれてしまうなら、依存せず、自立すれば良いのだ。
それは逃げでも、家族を捨てる事でも無い、言わば家族という壁を乗り越えていく。


父を越えろ。
母を超えろ。

近年エヴァを見るたび思うミサトさんの事

いや、今回というか、前からもう何度もエヴァ見返してるけど、近年特にミサトさんについて考えてしまう。TV放送リアルタイム世代の僕らは、ちょうど今ミサトさんと同じ年齢になっているので、シンジ君についてはある程度答えは出てたりするんだけど、ミサトさんという存在については未だ答えを出せずにいる。
そこで一つ語られていないこの手の言説として、葛城ミサトの作戦参謀としての優秀さという所に、誰も何も疑問を持っていないという事が、僕はいささか不満であり、今回の新劇場版でも全くそこのところが出てくる気配が無いので、これは最後まで言及される事は無いんじゃないかと思う。
ミサトさんの女性性や人間性については微に入り細にわたり、描かれ、また語られてきたわけだけど、彼女の参謀としてのキャリアについては、あまり詳しく描かれてない。
はっきりいって女性で二十代の参謀というのは、格闘美少女ぐらいありえない存在だと思われ、代々格闘家の娘でお爺さんが仙人で小さい頃から修行を、という設定無しにはリアリティが無い、とそのような存在であるといえる。にもかかわらず何のエクスキューズも無いとは、そして誰も疑問に思わない、TV版のあのセックスの後っぽいシーンでミサトさんの全て知ったような気になってしまっている。僕もそうだった。
がしかし、今になって、ミサトさんについて考えると、なんというありえないキャラだろうと。キャラとしてというよりも女性としてありえない、まるで童貞が作り出した女性像のようなありえなさ。穿った見方をすれば、女性を憎んでいるような避けているようなそんな作り手の持つ女性像が投影されたのがミサトさんではないかと思えてくる。

普通に生きてればだいたい世の中にどんな人がいてどんな仕事に向いてるかって知っていくけど、まず葛城ミサトのような女性がいたとして、ああいう女性が作戦参謀として才能があるわけがない。もちろんそこはそれ物語である、それに僕の了見が狭いだけでそういう女性がいるかもしれない、だとしたらその裏づけの描写を、ワンシーンだけでもあれば納得できるのに、と思ってしまう。
ネルフの作戦参謀といえば世界一頭のキレる参謀という事になる、別作品でいうなら銀河英雄伝説ヤン・ウェンリーのような、ああいう模擬戦での戦績やら実戦の功績が名前と対になってあだ名になってるとか、そういうのがあればなー、いや絶対あった方が良いのに、監督に手紙書いて送ろうかな、と思ったけどそんな奴はいっぱいいるだろうから止めておく、きっと何かそうしない理由があるのだ、という事にしておく、しておくというか捨て置く。
映画はめちゃめちゃ面白かった。次も見る。あとサマーウォーズも見る。

エヴァ破見てきた凄かったネタバレ



序が庵野回で破は鶴巻回。





いや新キャラが庵野監督ぽくない今までのエヴァに無い、おそらく鶴巻監督主導で新キャラはあるんだとかって感想をさっき見たんだけど。それもそうだけど、つか色彩から攻撃かわす時のカメラワークとかフリクリのあの感じ、顔のデフォルメとか、目の書き方とか、子供の子供らしさとか、中学生の中学生らしさとか、鶴巻監督の子供を守ろうとする意思を感じるところとか、キャラだけでなく今回のは全て鶴巻監督作といって良いと思われ。

そう考えると、序の時のなんと庵野作品ぽい事かと。

で、次は摩砂雪監督回という事になったり、人間関係メインで、キャラ萌え作とか、実写とか挟んだりw

生活

どうしようも無い生活を送っている。それはそれはもはやどうしようも無い生活である。


以前僕は、生活とはまるで積み木を積み上げていくように、なんて地味で退屈で、とてつもなく不安定な作業なんだ、と思った事がある。
こんな事が僕なんかにできるもんかと、積み上げては崩し、積み上げては崩し、積み上げては崩し、積み上げては崩し、永遠にその繰り返しである。
気が付けばその繰り返しの作業に何かを見出している自分に気付く。それは繰り返す事の意味なのか、積み上げる技術が少しずつ上達してきたという感慨なのか、何なのかはっきりとは分からないけれども、少なくとももはや退屈では無い。いつのまにか、そこに何か楽しさや美しさのようなものを見出している自分がいたのだった。


そして僕は今、積み木が崩れてしまう事を何よりも恐れている。
その恐怖心は何かに似ている、例えば書道で字を書いている時、あと一文字で完成で次失敗したら台無しだという時、あるいは弾き語りで、サビ前で次の歌詞間違えたら興醒めになってしまう、そんな時に感じる恐怖心と似ている。
「生活」とかけ離れた「書」や「歌」の中にも生活の要素はあるのだ。それほどまでに生活というものの本質は広く大きい。
書の中に生活があり、歌の中に生活があり、芸術の中に生活があり、創作の中にこそ生活がある。
なるほど、そうか。
生活とは哲学なのだ。


ならば、やっていける。
何度だってやってやる。

過去に自分がした選択の正しさ

僕が自分の事で幸運だと思うのは、善悪の判断において基準みたいなものをわりと労せずに持てた事。


善悪の判断は、人によってはそれこそが人生のテーマにもなり得る事で、人生において超重要な要素だと僕は考えている。とても頭の良い人でも、その事が分かっていない人がいる、ライフハックとか本とかたくさん読んでも、そこは分からないらしい。人生に成功しようが失敗しようが、悪い奴は悪いし良い奴は良い、どちらの側に付くかは今すぐ決める事が出来る。自分のやってる事は正しいか正しくないか。
という風に突き詰めて考えると、果たして自分は良い人間として正しいつもりで生きてきたが、本当にそうだろうか? という疑問が生まれてくる。では正しいとは一体何なのかと。


これは人類の宿命的悩みだと言ってもいい。この善悪の問題にすべての人が悩まされている、という事実をまず認識するべき。思うに、この問題に悩まされている人っていうのは、善悪というものを個人的なものと軽視しているが故に囚われているようにも見える。
このように善悪を語る事に対して、僕はいささかの躊躇も無く書ける。この問題の答えは僕の中でははっきりと出ている、ただしそれを読んだからって他人がそうかと納得できる訳では無い。最終的には自分で考えて納得しないといけない、それは誰にとってもある種の神秘体験のようなものになるはずだ。


その答えというのは超単純なもので。結局、人は間違うから、失敗したら反省して次間違えなければ良い、また失敗したらその次だ。その姿勢こそ正しいと言える。常に正しい者でありたいと願う事こそが善であると。


これ多分、僕が19から22才ぐらいの間にずっと考えてた事で、当時は「自分を許す」という表現を使ってた。その間の酷かった時は一年ぐらい僕は引きこもり状態で、冒頭で書いたように簡単に答えを出したと言えないかもしれないけど、一生かかっても納得できる答えを出せなかったり、途中で自殺してしまうような人もいるので、僕は幸運だったんだと、今になってそう思ったりする。


興味深いのは、当時の僕は全く何も自覚していなかったという事である。当時の認識としてはすべてのやる気が無くなり、何をするにも臆病にになったというだけである。
しかし今思い返すと、それにはちゃんと理由があり、そうするべきだったと思える。無自覚に自分に必要な手段を選んでいる、それが不思議である。
その当時考えた事を、その後の22才から現在まで実際に行動して確かめるように実践してきた気がする。今になってあの時悩んで考えてた事が、本当に大事な事だと分かってきたマジで。やっと身についた、という感覚、血となり肉となり骨となった。


そして今、僕はまた再び前後不覚に陥っている。今回は、以前のようにやる気が無くなるという訳ではなく、やりたい事がありすぎるという事である。やりたい事というよりも、やらざるを得ない事がどんどん出てきて、それに対しての興味も意欲もどんどん出てきて、一体俺は何をしたいのか状態なのである。
しかもそれら全てがまったく何の関わりも無い、バラバラのもので、その上これっぽちも役に立たない。
ちょっと前まで、その事で真剣に悩んでしまって、これはもっと一つの事に集中するべき、という暗示なのだろうか無意識の、とか考えたり。どうにかそれらの興味の根源を探って、共通項を見つけて一貫したポリシーのようなものがあるんじゃないかと考えてみたり。結局何も無い、全くの無節操だった訳だが。


そしてこれ、またしても、人類に共通の宿命的悩みであると言える。やりたい事が二つあって、二つともやるべきか、一つは捨てるべきか。もう少しふさわしい例え方をするなら、共通のリソースを食い合うものが二つあって、どちらか一つを捨てるべきか、捨てずに共存していくべきか。
僕は今、二つともを選ぶ共存の道を選択している、二兎を追っている、二君に仕えている、それが正しいかどうか正直分からないけど、そうありたいと願う。今回も僕は知らず知らず、最善の選択をしているのだろうか。二兎を追うための、二君に仕えるための、「何か」を学ぼうとしているのかもしれない。まあ今のところどちらも中途半端なので結論と言及は避けておく(何をやってるか詳しい事はmixiに書いてたりする)。また何年かしたら答えが出ているのかもしれない。